日本唯一の"演劇芸術"学校、スタニスラフスキー・アカデミー
黒子の俳優
今日の舞台公演、ドストエフスキー作「白痴」幕引き。僕は黒子で
しかしバスケと違って"コートの外"でなく"舞台の裏"から観る
例えば舞台に出る直前の俳優女優。緊張をほぐそうと深呼吸したり
演劇って面白い。俳優も面白いけど、僕は演劇というぜんぶがより
明日はブレヒト作「コーカサスの白墨の輪」という、とある内戦中
18:30@両国シアターX。
戦場カメラマンの皆さん、手ぶらで戦場へ来て下さい。
10年目の幕が上がり、幕を閉じた。
風が吹いて、新緑の葉がこすれるような拍手の音。朝日が射すような。
今日の舞台、ブレヒト作「コーカサスの白墨の輪」の幕が閉じて、そんな拍手を浴びた。それはショーやエンタメや音楽ライブでは浴びない類いの拍手だった。
さっき、所属している劇団「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」の10thシーズンのオープニング公演が幕を閉じた。幕が上がる、とか、幕を閉じる、って形容表現があるけど、今日の僕たちの場合は、文字通り幕を閉じた。
あしたのジョーの最終回の、椅子に腰を下ろして真っ白になったジョーみたいに燃え尽きた。役者としての出演、裏方、宣伝公報、あらゆる全てに力を出し切った。心地よい疲労感。
今日は、槍を手にヤイヤイする兵隊と、バイオリンを手にワイワイする楽隊の二役で出演した。「武器を楽器に」みたいな言葉があるけど、実際に一人間として生きてみると、「楽器を武器に」でもいいと思った。つまり、どっちの人間も、それを手にせざるえを得ない人生になったわけで、本人が懸命に生きている限り、そこに優劣も善悪もないということだ。
実際に今日、舞台ではなく現実で、この世界では武器を手にしている人間も、楽器を手にしている人間もいるのだ。僕と同じような若者が、シリアで、エジプトで。
今日演った「コーカサスの白墨の輪」は、第二次世界大戦中に、ドイツ人作家ブレヒトがナチスから逃れ亡命中に書かれた作品だ。物語も、戦争の絶えないコーカサス地方(現在のグルジア、中央アジア辺り)を舞台に、政治や戦争に翻弄されながらも誇り高く生きる人々が群像劇として描かれている。
武器や楽器を手にとらざるを得ない若者がいるように、70年も昔の当時に命の危険を冒しながらもペンを手にとらざるを得なかった若者の心を僕は想う。彼は天才的な作品を遺したかったわけではなく、世界的な名声を手にしたかったわけでもなく、印税収入でセミリタイアしたかったわけでもない。
世界史のまっただ中で置きている現在進行形の歴史を、TVでも新聞でもなく戯曲として、芸術として、遺さなければならなかった。後世に生きる人々に、現代を生きる僕たちに。それはきっと、70年後に西暦2083年を生きる人々が「風立ちぬ」を観るような気持ちだと想う。
7年前、あのとき僕は旅に出ざるをえなかった。全てを捨てて。僕には手にもつべきものが何もなかったからだ。今僕は、シリアにもエジプトにも行かない。ここでやるべきことがあるからだ。それが飛行機の設計でも、舞台の出演でも、特殊ネジの溶接でも、松屋のキッチンでも、それらは全部かけがえのない仕事だ。
話がズレた。今日、芝居が幕を閉じた、って話だ。
芝居、楽しかった。役者、おもしろかった。演劇、うつくしかった。この芸術を構成するあらゆる全てに感銘を受けた。俳優、演出家、作家、戯曲、衣装、照明、音響、舞台美術、劇場、そして感情共鳴装置の如くの観客の方々。古来は御神事であり儀式であったカミサマ事が、演劇として現代に生きていること。そのことに有難う御座いますと想う。
書ききれないなあ。俳優として体験したこと。劇団員として経験したこと。観客の輝く目や感動の言葉。裏方でミスって舞台監督に胸ぐらつかまれてベソかいたこと。
書ききれないので、今の気持ちだけここに残しとこう。
僕はいま、生きている。僕はいま、人間を生きている。風邪をひいている。心は悲鳴をあげている。本当はとても淋しい。身体はとてもつかれた。きらめくような経験をしている。バイオリン弾くの楽しい。心にいっぱい傷があって小出しにかさぶた取っては治してる。孤独。自分の道を一人で歩いている。前方には誰もいない。僕が行かないと誰もいかない道。そこに何があるのか知らないけど、何かが僕を待ってる。キラリと。思春期まっしぐらの僕の息子が客席にいるのを垣間みた。僕は僕が誇りに思う仲間を雲より高く讃歌した。キラリ。胸を張れと伝えた。
黒い湖の底で瞑想するような感覚。ここには特に何もないので、何もないまま何もせずに座る。背筋伸ばして。思えばいつでもここにいた。
よくがんばりました。おつかれさまでした、おれ。おやすみなさい・・・
劇場という家、舞台という生活の場へ。
僕は故郷へ帰ってきた。
劇場という家、舞台という生活の場へ。
今日、我が劇団「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」の記念すべき10thシーズンが始まった。演出家アニシモフさんが3ヶ月ぶりに来日し、明日からの公演のために稽古をした。
演目はドストエフスキー作「白痴」。20人以上の役のある超大作だ。うちの劇団は一つの芝居を創るのに十月十日の歳月をかける。そして誕生した芸術作品を、5年も10年もかけて育てていく。能や歌舞伎では当たり前のことだが、日本演劇界ではそれは極めて稀有な上演方式だ。
「白痴」も2011年に初演し、今年で3年目、30回以上の上演を経てきているが、今日の稽古でまた、まるで全く違う作品のように生まれ変わった。まず、主役のムィシキン役の俳優が、まるで違うキャラクターを創った。この俳優は本場ロシアの演劇評論家にも名が知れ渡るほどの天才的な人だ。昨年までの公演ですでに高い評価を受けていた役作りをぶち壊し、今日まったくゼロから役を創りあげ(ようとしてい)た。
そして圧巻はやはり演出家アニシモフさんだ。いつも稽古の初めに、俳優達に向けて舞台創造に向けての話を聞かせてくれるのだが、そこに掲げられる理想とビジョンがいつ如何なる時も1mmもブレない。過去に聞いたどんな有名な経営者や政治家の話よりも、圧倒的に格調の高い、魂の震えるストーリーを聞かせてくれる。
そして稽古が始まると、鬼だ。笑うときも怒るときも、鬼だ。まるで3歳児の子どものように無邪気に俳優とじゃれあうような演出を施すときもあれば、訓練された軍人でさえ失禁するような怒りを150キロのストレートでぶつけるときもある。それは人間と人間の間で可能な限界値の関わり合いだ。俳優は魂と全人生を賭けて舞台で戦う。稽古中、舞台に上がっていない俳優はそれを観ながら時に腹をよじらせて爆笑し、時に嗚咽して涙を流す。稽古が長丁場になれば、時に胃を痛め、腹を下し、鬱勃とし、それでも「役創り」という創造活動に取組む。妥協は許されない。
今日3ヶ月ぶりの舞台稽古に参加して、「ああ、やっぱりここが僕の故郷だ」と思った。帰るべき場所、耕すべき、温めるべき場所だ。誰にも遠慮なく、誰の魂も損なわずに、全身全霊をぶつけられる場所。本気を出せる場所。真剣な人だけが美しい場所。人間が人間として生きることを問われる場所だ。
音楽や映像や小手先の演出でごまかすことをしない舞台には、「人間」という材料しかない。陳腐な調味料や調理法は施されず、素材の味をパキっと活かした料理が創られる。それは味覚を失った人には中々おいしく感じられるものではないが、紛れもなくホンモノの味がする。一定以上の感性と感受性を開かないと、見えない世界。
僕はもう、しょーもないことに時間を費やしたくない。一見かっこよさげ、おもしろげだがしょーもないことで東京の99%は構成され、運営されている。そっちはもう、いい。そこでも十分戦ったし、負けたし、飽きた。し、それは時間とともに朽ちていくし、オーガニックじゃないし、シンプルにくだらない。
僕は本当のことをやりたいのだ。本当のことを言いたいのだ。本当に人間をやりたいのだ。
人間は実におもしろい。飽くることがない。それにいつでも驚く。全く持って邪悪で、神聖で、猥雑で、潔白な生き物。しかも同じカタチのモノが二つとはない。すべてが違う様相を呈している。凡庸さの中に、唯一無二の光と影がある。音と手触りがある。僕はそれに胸震える。誰が何と言おうと、すべての人間は尊くおもしろいのだ。
天才作家はそういう人物群しか描かない。100年後僕らは生きていないが、ハムレットは100%生きている。そういう人物で構成された物語の力よ。それは普遍的で永遠の美。太陽系の惑星がぐるぐると自転と公転を何億光年と続けていくように、宇宙的な無尽蔵のエネルギーを秘めている。その金脈を掘り進めるのが、「役創り」という行為だ。
ドストエフスキー作「白痴」の20超の人物群。19世紀ロシア風の衣装を身にまとい、舞台上で四苦八苦し狂喜乱舞し、生きて、死ぬ人間達(俳優達)を間近で観ていると、世界中のあらゆる時代の人間模様を同時進行で目撃しているような気持ちがする。
僕はぺーぺーだ。林家ペー、林家パー子だ。ウンコだ。未熟な渋柿だ。よってそこに秘められた可能性と創造性は宇宙だ。芽は出ないかもしれない。花が咲くかもしれない。それは誰にも分からない。ただ僕は毎日土を耕し、水をやり、光を当て、歌い、踊り、前を向いて歩いていくだろう。目指すは究極だ。どうせやるなら最高中の最高のものをやりたい。
明日は本番。明後日も本番。明々後日は北海道で小説朗読の仕事。
俳優の季節がやってきた。
僕は故郷へ帰っていく。
ケータイを捨て、劇場へいこう。
春の夜の夢
未熟であること、未熟であること。
サローヤンの舞台「アレキサンドル・ドュマ以降のアメリカにおける詩の状況」の二日目が終わった。今日は病体押しての舞台で、開演1時間前に1000円の栄養ドリンク飲んだけどあんまり効かなかった。
身体が重いと、やっぱり演技も重い。軽さがすごく重要な役だし芝居なので、これは致命的だった。観ててくれた先輩で「よかった」と言ってくれた人もいたけど、自分が納得できなきゃ、なあ。
そしてこういう調子のよくない時に、分かってないシーンが露骨になる。これまでノリとかエネルギーでやり過ごしてきた部分が露になって、役の理解できてないところ、演技の定まってないところがはっきりとした。舞台本番中に「あ、ここ分からない」と自覚してしまうのは拷問だった。恥ずかしくてたまらなかった。お客さんごめんなさい。
今日ダメだったこと、ちゃんと受け止めなきゃな。ちゃんと反省して、役を作り直さなきゃ。あまりにも未熟で全部投げ出したくなるけど、逃げちゃダメだ。にしても落ち込む。。。あーあ、めんどくさい職業選んだもんだなあ・・・
今日の失敗がいつかちゃんと糧になりますように。