演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

モスクワでの古事記公演

モスクワで舞台「古事記」を上演してきました。ロシアでモスクワ芸術座のプロデューサーを務めていた方が奔走して下さっての自主公演でしたが、なんと満員御礼!

ロシア人にとっては全く未知の「古事記」という作品に何百人もの観客が押し寄せることに、プロデューサーの方も驚いてらっしゃいました。

公演前に、今回ご同行頂いた古事記研究家の鎌田先生に、「ロシア人にとってなじみのない古事記は、どういう風に受け取られるでしょうか?」とお聞きしたところ、「伝わるのはおそらく生命感。次々に神々が産まれ、そして死んでは産まれる、一神教の世界観とは大きく異なるその躍動する生命感が伝わるはずです」とおっしゃってました。

そんな話を聞いたわけでもないのに、演出家のアニシモフ氏が、今日の舞台の前半終了後の休憩になって、

「舞台後半は、何度死んでも産まれ変わる、神々のその生命力を伝えてきなさい」

と俳優陣に指示。その偶然の一致に、何か大いなるものに突き動かされているのを感じました。

日本人観客にとってもかなり特異的な舞台である我々の「儀式劇・古事記」がロシア人の目にどう映るのか、正直かなり不安もあり、海外での公演に俳優陣も相当ナーバスになっていて、そのピリピリした雰囲気のためか僕は胃が痛くなり食事もあまり喉を通りませんでした。身体もバキバキで、それこそ神社で禊をしたいような状態で臨んだ舞台でした。

しかも演出上、2時間の舞台中ずっと笑みを浮かべていなければなりません。10分ならまだしも、2時間!開幕後30分後には頬筋が引きつりそうになりながらもなんとか微笑み続けていると、いつの間にか、自然に微笑んでいる自分がそこにいました。舞台と客席が一体になり、そこに存在する喜びが自分を笑わせていることに気づきました。

これは錯覚かもしれませんが、そこでは何か奇跡的なことが起きていました。目には見えない何かがそこにあり、耳には聞こえない何かがそこで鳴り響いていました。ものすごい振動と衝撃が起きているのを肌身で感じた夜でした。

舞台古事記は、天岩戸が開いて天照大御神が現れ世界に光が戻り、歓びの歌と共に終幕、観客からは「ブラヴォー!」の声と共に拍手喝采で幕が引かれました。

今回の公演の実現の為に東奔西走して下さったロシアのプロデューサーの方、日本語の上演にも関わらず足を運んでくれた数百人の観客の皆様、劇場のスタッフの皆様、その他関わって下さった全ての皆様、そして八百万の神々に、心からの感謝を送ります。

本当に、皆様のおかげさまでした。

この想いと祈りが、全人類に、生きとし生けるものに、いま地球で生きる全ての存在が死に絶えた後にもこの地球に生きる全てのものに届きますように。

 

f:id:tawamure99:20161010030422j:image

 

f:id:tawamure99:20161010030436j:image

五里霧中

ログとして自分の為に書く。


凡そ3年ぶりのストレートプレイの集中稽古。ここ数年は儀式劇としての古事記とか、単発での公演とか、あと一年芝居を休んだりとかで、ここまで集中稽古する機会がなくて、そのことによってここまで心身ともに俳優であることを忘れてしまうものかと唖然としている。


初めてやったチェーホフのイワーノフという芝居の台詞を思い出す。


「僕は自分が何者なのか、何のために生きているのかも分からず、影のように人々の間を彷徨っているのです。」


舞台のうえで、まさにそんな状態と心境になってしまった。正直もう自分は俳優やれないんじゃないか、という疑問と寂しさがある。


それが、執着なのか、単に自分の才能を見限りそうになってるのか、情熱が失せてしまったのか、どれなのか分からない。



改めて感じるのは、俳優という職業の困難さと求められるものの高さ、鍛錬の必要性、何より意志と目的の重要性だ。


楽しいからとか、好きだから、ってだけでしれっとやれることじゃない。音楽はそれでもできる、楽しむために趣味として。スポーツもできる。でも俳優は、演劇は、それが真剣なものであるなら、それは許されない。あと覚悟。


進退を問われてるし、問うてる。そして進むなら、もう退路は断たねばとも思う。


にも関わらず、3日後にはロシアに演劇フェスティバルに参加しに行く。全くもって準備ができていない。



あ!これは何度も見た夢。

舞台に立つ、という段になって、全く準備ができてなくて、オロオロ狼狽する、という夢。俳優の人たちはよく台詞をド忘れする悪夢を見るらしいけど、それはないのだけど、もっと内的に、準備ができてないってやつ。



そして演出家、という職業。

これはもう、神の領域というか、宇宙飛行士なみの知識と鍛錬と覚悟とそれに選ばれること?村上春樹がエッセイに書いてたような、「作家としての資格」のようなもの、さえ必要だと感じる。


よっぽどじゃないとできん。遊びならできるけど、今うちの劇団でやってるような芸当にはとうていたどり着けない。



はぁ、、、

どうしよう、、、



でも、それでも、やってみたいんだよなあ。こればっかりは説明がつかん。からには、やってみるしかない。という結論。やらずに死んだら絶対後悔するもんな。



明日は古事記の稽古。

八百万の神々に捧げてきます。

僕らがロシアへ旅する理由

「この世界は絶対なんかおかしい、自分には絶対なんかできるはず」

そう思い立って2006年26歳の時、サラリーマン辞めて2年間の世界放浪の旅に出て、2008年、自分なりのビジョンを持って帰国し、それから2年間理想と現実の狭間で何をやってもうまくいかず夜な夜なコンビニスイーツを貪るような現実逃避の日々を過ごし、しかし2010年、ロシア功労芸術家の舞台演出家レオニード・アニシモフ氏に出会い、背骨に電撃走り即決で弟子入りし、2011年、いきなり主役に抜擢されて東日本大震災の10日後に初舞台に立ち、翌年には3作品2つの主役を演じもしかして才能あるのかも...と調子に乗ったアホは再び五里霧中/暗中模索の日々に突入し、それから4年。2016年9月、初の海外公演の舞台に立ってきます。

今回の公演は、世界中の様々な国から劇団が集まる国際演劇祭「黄金の門にて」に公式招聘されてのもので、所属する劇団がロシア最大の演劇組織「ロシア演劇人同盟」の推薦を受けて参加できることになりました。ロシアの古都ウラジーミルでドストエフスキー作「idiot~白痴より~」を、首都モスクワで「儀式劇・古事記」を上演してきます。

劇団の芸術監督レオニード・アニシモフは言います。

「日本という国が持つ文化、日本人という民族が持つ資質が、いつか世界を変えることになる」

これこそ僕が2年間の世界放浪の中で目にし、手にしたビジョンで、何一つうまくいかず現実逃避しながらも失わなかった希望です。

演劇を始める前の20代の時、「日本の和の心、そんなんを具現化したい、それを世界に発信したい」みたいなことをぶつぶつ友達に話してたら、「抽象的で曖昧で、そもそもスタンスが甘い」ってなこと言われました。凹みました。コンビニで大福とシュークリーム食べました。生きる意味の見出せない日々でした。そんな日々の中誰にも理解されなくても、失わなかった漠然とした思いが、10年かかってようやく輪郭を帯び始め、ロシアの首都で儀式劇「古事記」の舞台に立つという機会を得ました。

古事記の舞台稽古で演出家アニシモフはこう語りました。

古事記における最大の事件は、祭りによって天照大御神が岩戸から出てくることではなく、天照が洞窟に隠れて世界が闇に閉ざされたときに、光がないことなど関係なく神々が歌い踊り咲(わら)ったことだ。」

この言葉を僕は現代社会と自分へのメタファーとしてとらえていて、この不穏な世情の中で僕がやるべきことはこれじゃないか!と。歌うように喋り、踊るように街を歩き、喜びを生きること、ガハハと笑って生ききることじゃないか!と。

 

ということで、お祭り男解禁です。
行ってきます。

 

お祭り男、ロシア国際演劇祭へ行ってきます。

声を発することを恐れて永らく口をふさいできたけど、このままじゃ終われん、このままでは死ねん、と思いブログを再開することにした。
ロマンやビジョンが先走ってばかりの自分から、現実にぶち当たって現実乗り越えてく自分へ、このブログもそんな珍道中になればいいなと思う。


さて、所属する劇団がロシアの国際演劇祭に招聘されて、首都モスクワと古都ウラジーミルで公演することになった。
ドストエフスキー作「白痴」と、日本最古の物語「古事記」を上演してくる。ロシアと日本の重厚な古典作品。

芸術監督のアニシモフさんが日本で演劇活動を初めて12年、待望の舞台逆輸入ということになる。
例えるなら、いつか僕が演出家になってイランに行き、イラン人俳優と共に舞台「コーラン」と、舞台「人間失格」を創り、イラン人と共に日本にやってきて上演する、というようなものである。こうして書いてみると、改めてすごいことだ!

ロシアには26歳のとき一度行こうとして行けなかったことがあった。
当時、世界放浪中でイタリアでロシアのビザを取ろうとして大使館に行ったら、ビザ代として50ユーロくらい請求され、「明日来い」と言われて行ったら、「ビザ降りなかった」と言われお金は返してもらえなかった。つまり、ボラれた(大使館にだよ!)。しかもアジアやアフリカならともかく、イタリアで!

そのロシアへ行く。無目的な放浪ではなく、超目的的に、ロシア人に演劇を観せに行く。
どうせ観せるなら、絶対「ブラボー!!」と観客総立ちにさせて、コサックダンスを踊ってもらって、ウォッカで乾杯して、そして同じ人間として生きることについて語り合ってみたい。

日本人はあんまり知らないけど、ロシアというのは実は演劇大国で、ロシアにおいて「俳優」という職業は医者や弁護士並みの競争率と難易度を誇り、まず演劇大学に入るのが超絶難しく、入学したらしたで全寮制で朝から晩まで俳優修行、それを4〜6年くぐり抜けたエリートが国立劇場へ公務員として就職する、といった具合らしい。そのロシアへ行く。観客は目が肥えている。半端なものは観せられない。ひーーー!!!


しかし僕らは勝負する土俵がちがう。僕らは日本人としてロシア人に舞台を披露しに行く、そこに意義がある。
日本において「俳優」という言葉が初めて現れたのは、日本書紀。物語は古事記と同じ「天岩戸開き」の一節。洞窟に隠れた天照大御神を呼び戻すために、芸術の神、アメノウズメノミコトが神懸かりのトランス状態となって踊り狂った様を評して俳優(わざおぎ)と呼んだ。「おぎ」とは招く、呼び寄せる、という意。つまり神を招くわざ、それが「俳優」なのです。その精神は主に「能」に引き継がれていて、能における幽玄の世界観はまさにそれ、目には見えない向こうの世界の何かを、目に見えるこちらの世界に表象させる、その舞台芸術。舞台古事記では、「能」や「狂言」の要素をかなり取り入れています。

でもよくよく思えば、「なんじゃこりゃー!」「すげーーー!!はんぱねーーー!!」って魂が震えるほど感動するときって、必ず誰かや何かが神懸かってる気がする。マラドーナだって、ジミヘンだって、ジョンレノンだって、浅田麻央ちゃんだって、長野オリンピックで大ジャンプを見せた原田だって、みんなそうじゃないか。

そう考えると、舞台にしろステージにしろコートにしろ、人が覚悟決めて立つ場所というのは、やっぱりどれも神聖で、そこに人が集まるのにはちゃんと意味がある。人生と自身のすべてを賭けて、一秒一秒集中して、エネルギーの全てを注ぎ込む。そういう姿ってやっぱり胸を打つ。リオ五輪の、卓球の愛ちゃん観てても、やっぱり胸打つものあったもんな。あの目よ、あの目。


あとロシアには、なぜか、自分の死地、みたいなイメージがある。
どこまでも続く雪の真っ白い地平線、そのだだっ広い白い大地の真ん中で、大の字に横たわって、溶けるみたいに死んでいく。
純白の安心感と安堵感、完膚無き満足感と達成感、そして光のような感謝と幸福感に包まれて、なぜか、白や黒や黄色い人達に囲まれて、安らかに死んでいく。いつかそんなイメージを見た。そんなイメージを見たもんだから、それから辛かったなあ、この10年。

と、話が飛んだけど、とにかく行ってきます、ロシア。
このブログでも、実況中継します!
スパシーバ(ありがとう)!!



古事記稽古ログ

古事記稽古。
一幕。

宇宙開闢から、イザナギイザナミの神産み、国産みを通しでやる。

演劇というより、完全に儀式。
魂が浄化される感覚。
アニシモフさんはそこにいるだけ。
それだけで空間が宇宙になる。

僕はほとんど座っているだけ。
座って、内面でせっせと仕事をする。
目に見えないところで全ては進行する。

全員の内面で調和を図る。
汚れたイメージ、想像を掃除していく。

明日は二幕。

希望

十月の新作舞台「古事記」に向けての秋季初稽古で演出家のアニシモフさんが、近代から現代にかけてのロシア人からみた歴史を語ってくれた。

人類が歩んできた道。

19世紀初頭、そこには精神の生活があった。
トルストイが登場し、ドストエフスキーが現れ、ツルゲーネフがいた。
チェーホフが現れる頃、人間は精神の生活を失い肉体だけがあった、人々はメシを喰らい怠惰に生活を送っていた。

革命が起き、第一次世界大戦が起きた。ロシアは、ソビエト連邦となる。第二次世界大戦が起き、終わり、何百万人が粛清される。

冷戦が始まる。
チェルノブイリは爆発する。 
ソ連アフガニスタンへ侵攻する。
冷戦が終わる。
ペレストロイカが起きる。
チェチェン紛争が起きる。
そして今、ウクライナでは武器を持たない女子供が地下で虐殺される。

アニシモフさんはただ二百年の歴史的事実をただ並べただけだった。
その重みと愚かしさがスコールを浴びたように僕の全身に降りかかった。


人間。
人間と人間の営み。


そして我々は、この島国で、古事記をやるのだと。
それは大昔の日本人が遠い未来に放った希望なのだと。
これが神々の営みであり人間の営みなのだと。


重くて重くてしんどいから、軽く軽く歌うように。
悲観的なことばかりだから、羽のように、踊るように楽観的に。



アニシモフさんは言った。
古事記における最大の事件は、天照が岩戸から出てくることではなく、天照が岩戸に隠れて世界が闇に閉ざされたときに、光がないことなど関係なく神々が歌い踊り咲(わら)ったことだ。」


人間が何百、何千万人死のうと殺しあおうと、生命の営みは途絶えない、それが究極の楽観的希望なのだと。



これはたいへんな秋になる。

回転

地球は同じ方へ自転し公転し、太陽系も銀河系も

前方へ前方へ

曲は始まれば終わりへ
命も生まれれば死へ
死へ向かって死へ向かって
とりあえず死ぬまでは歌い踊るのだ
メシを食えば満腹にやがて空腹に
月も満ちては欠け
明日はは台風のスーパームーン
京都の山奥にいるブラザー達とルンペンが心配だ


自分の思惑とは無関係に時は前へ
前方へ前方へ

唾も涙も鼻水も汗もションベンも
本質的には同じもの
流れ流れて海へ注ぎまた天へ
雨や雪や雹になってまた地上へ
そしてまた涙や鼻水へ


かあ


創造することをやめてはいけないよ
まだ何かやることがある
やり終えてはいない

創られたがっている何かが在る
小さな衝動がある
何か善いもの
何かしら本当のものを
探り探り本当のものを


猫が鳴いている
跳びはねて何か訴えている
本能だ


どうせ創るなら、人を笑わせるものを創ろうね