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演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

真実のもつ治癒エネルギー

今日はドストエフスキー「白痴」の公演だった。

本番前の稽古で、アニシモフさんがチェーホフの妻、クニッペル・チェーホフの話をしてくれた。「彼女は『桜の園』のラネーフスカヤ役を45年間やった。飽くことなく、それは45年間植物のように成長し続けた。役も作品も成長し続けなければならない。」

毎回テーマを持って公演して、作品を成長させていく。前回の公演では、作品の「存在方法」(雰囲気とかトーン)を中心的な課題としてやった。今回は徹底的に「交流」だった。相手役と誠実に正確にコミュニケーションすること。舞台に出たら自分の役のことは忘れて、相手のことだけを感じ考えること。

これをやったおかげで、前回3時間強だった芝居が、今回3時間50分になった!これはもう違う作品だ。今日は裏方で仕事しながら観てたが、これまでと全然質が違った。なんだか感覚としては、ドストエフスキー作品の強烈な葛藤と対立の中に、チェーホフ作品の繊細さが重ね合わされたようだった。10年間何百回とチェーホフ作品を上演してきた劇団の先輩方、すごいなと思った。こりゃあ、僕は出れないや・・と思った。

そして今日は、「真実」の力を思い知った。嘘をつかないこと。大げさな感情表現をしないこと。分かってないことを分かったフリしてやらないこと。そういうもので損なわれるものを全て排除すること。派手さはなく、見た目に地味で娯楽性はなくとも、その積み重ねた先、物語が展開して行く中で、ついに起きる奇跡を今日は目撃した。

あるシーンである女優が発していたエネルギー、それは明らかに半径50mくらいに拡散されていて、その射程距離にいた裏方の僕は否応なく、癒された。彼女の痛みと苦しみが曝されることによって、僕のそれが、傷が癒えていくのを確かに感じた。追体験芸術の芯を見た。普段あんなに優しいあの人が、舞台であんな姿を暴露するなんて。なんてこった。

真善美。どれもかけがえない要素だけど、やっぱりそれは真実から始まるのだなと思った。真実なきところに善も美もない。本当のこと。本当の人間の姿。僕は本物の人間になりたい。他でもない人間という姿カタチ、魂をもって生まれ生きてるのだから、これをやりきりたい。

演劇芸術という形式の極みによって、確かに癒される魂があるのだということ、今日は体感した。これは俳優の卵ひよこの僕にとってとても大きなことだ。料理人にとって素晴らしく美味しいものを食べる経験が大切なように。目や耳を楽しませるものでなく、魂を震わせ揺さぶるものを僕は創れるようになりたい。

そしてカーテンコールのまばゆい光の中に、20人の個性的な人物が立ち並ぶ姿は、なんかもう、美しかった。全員人間。機械じゃない、人間。CGじゃない、人間。生身の、人間。ああ群像劇って、すごいなと思った。ドストエフスキーすげー!と思った。神業。神様のお仕事だなこりゃ。

なんかこの世界の、山が高すぎて、雲の上すぎて、頂がまったく見えない。この世界の最高峰は、いったいどれだけ高いんだろう?酸素、あるかな?酸素ボンベ、ありかな?生きて帰れるのかな?おっかなドキドキする。。。

明日ももいっちょ「白痴」。明日も裏方だけど、どんな体験が待ってるかワクワクする。