演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

劇場という家、舞台という生活の場へ。

僕は故郷へ帰ってきた。

劇場という家、舞台という生活の場へ。

 

今日、我が劇団「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」の記念すべき10thシーズンが始まった。演出家アニシモフさんが3ヶ月ぶりに来日し、明日からの公演のために稽古をした。

 

演目はドストエフスキー作「白痴」。20人以上の役のある超大作だ。うちの劇団は一つの芝居を創るのに十月十日の歳月をかける。そして誕生した芸術作品を、5年も10年もかけて育てていく。能や歌舞伎では当たり前のことだが、日本演劇界ではそれは極めて稀有な上演方式だ。

「白痴」も2011年に初演し、今年で3年目、30回以上の上演を経てきているが、今日の稽古でまた、まるで全く違う作品のように生まれ変わった。まず、主役のムィシキン役の俳優が、まるで違うキャラクターを創った。この俳優は本場ロシアの演劇評論家にも名が知れ渡るほどの天才的な人だ。昨年までの公演ですでに高い評価を受けていた役作りをぶち壊し、今日まったくゼロから役を創りあげ(ようとしてい)た。

そして圧巻はやはり演出家アニシモフさんだ。いつも稽古の初めに、俳優達に向けて舞台創造に向けての話を聞かせてくれるのだが、そこに掲げられる理想とビジョンがいつ如何なる時も1mmもブレない。過去に聞いたどんな有名な経営者や政治家の話よりも、圧倒的に格調の高い、魂の震えるストーリーを聞かせてくれる。

そして稽古が始まると、鬼だ。笑うときも怒るときも、鬼だ。まるで3歳児の子どものように無邪気に俳優とじゃれあうような演出を施すときもあれば、訓練された軍人でさえ失禁するような怒りを150キロのストレートでぶつけるときもある。それは人間と人間の間で可能な限界値の関わり合いだ。俳優は魂と全人生を賭けて舞台で戦う。稽古中、舞台に上がっていない俳優はそれを観ながら時に腹をよじらせて爆笑し、時に嗚咽して涙を流す。稽古が長丁場になれば、時に胃を痛め、腹を下し、鬱勃とし、それでも「役創り」という創造活動に取組む。妥協は許されない。

今日3ヶ月ぶりの舞台稽古に参加して、「ああ、やっぱりここが僕の故郷だ」と思った。帰るべき場所、耕すべき、温めるべき場所だ。誰にも遠慮なく、誰の魂も損なわずに、全身全霊をぶつけられる場所。本気を出せる場所。真剣な人だけが美しい場所。人間が人間として生きることを問われる場所だ。

 

音楽や映像や小手先の演出でごまかすことをしない舞台には、「人間」という材料しかない。陳腐な調味料や調理法は施されず、素材の味をパキっと活かした料理が創られる。それは味覚を失った人には中々おいしく感じられるものではないが、紛れもなくホンモノの味がする。一定以上の感性と感受性を開かないと、見えない世界。

 

僕はもう、しょーもないことに時間を費やしたくない。一見かっこよさげ、おもしろげだがしょーもないことで東京の99%は構成され、運営されている。そっちはもう、いい。そこでも十分戦ったし、負けたし、飽きた。し、それは時間とともに朽ちていくし、オーガニックじゃないし、シンプルにくだらない。

僕は本当のことをやりたいのだ。本当のことを言いたいのだ。本当に人間をやりたいのだ。

人間は実におもしろい。飽くることがない。それにいつでも驚く。全く持って邪悪で、神聖で、猥雑で、潔白な生き物。しかも同じカタチのモノが二つとはない。すべてが違う様相を呈している。凡庸さの中に、唯一無二の光と影がある。音と手触りがある。僕はそれに胸震える。誰が何と言おうと、すべての人間は尊くおもしろいのだ。

 

天才作家はそういう人物群しか描かない。100年後僕らは生きていないが、ハムレットは100%生きている。そういう人物で構成された物語の力よ。それは普遍的で永遠の美。太陽系の惑星がぐるぐると自転と公転を何億光年と続けていくように、宇宙的な無尽蔵のエネルギーを秘めている。その金脈を掘り進めるのが、「役創り」という行為だ。

ドストエフスキー作「白痴」の20超の人物群。19世紀ロシア風の衣装を身にまとい、舞台上で四苦八苦し狂喜乱舞し、生きて、死ぬ人間達(俳優達)を間近で観ていると、世界中のあらゆる時代の人間模様を同時進行で目撃しているような気持ちがする。

 

僕はぺーぺーだ。林家ペー林家パー子だ。ウンコだ。未熟な渋柿だ。よってそこに秘められた可能性と創造性は宇宙だ。芽は出ないかもしれない。花が咲くかもしれない。それは誰にも分からない。ただ僕は毎日土を耕し、水をやり、光を当て、歌い、踊り、前を向いて歩いていくだろう。目指すは究極だ。どうせやるなら最高中の最高のものをやりたい。

明日は本番。明後日も本番。明々後日は北海道で小説朗読の仕事。

 

俳優の季節がやってきた。

僕は故郷へ帰っていく。