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演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

10年目の幕が上がり、幕を閉じた。

風が吹いて、新緑の葉がこすれるような拍手の音。朝日が射すような。

今日の舞台、ブレヒト作「コーカサスの白墨の輪」の幕が閉じて、そんな拍手を浴びた。それはショーやエンタメや音楽ライブでは浴びない類いの拍手だった。

 

さっき、所属している劇団「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」の10thシーズンのオープニング公演が幕を閉じた。幕が上がる、とか、幕を閉じる、って形容表現があるけど、今日の僕たちの場合は、文字通り幕を閉じた。

あしたのジョーの最終回の、椅子に腰を下ろして真っ白になったジョーみたいに燃え尽きた。役者としての出演、裏方、宣伝公報、あらゆる全てに力を出し切った。心地よい疲労感。

 

今日は、槍を手にヤイヤイする兵隊と、バイオリンを手にワイワイする楽隊の二役で出演した。「武器を楽器に」みたいな言葉があるけど、実際に一人間として生きてみると、「楽器を武器に」でもいいと思った。つまり、どっちの人間も、それを手にせざるえを得ない人生になったわけで、本人が懸命に生きている限り、そこに優劣も善悪もないということだ。

実際に今日、舞台ではなく現実で、この世界では武器を手にしている人間も、楽器を手にしている人間もいるのだ。僕と同じような若者が、シリアで、エジプトで。

今日演った「コーカサスの白墨の輪」は、第二次世界大戦中に、ドイツ人作家ブレヒトがナチスから逃れ亡命中に書かれた作品だ。物語も、戦争の絶えないコーカサス地方(現在のグルジア中央アジア辺り)を舞台に、政治や戦争に翻弄されながらも誇り高く生きる人々が群像劇として描かれている。

武器や楽器を手にとらざるを得ない若者がいるように、70年も昔の当時に命の危険を冒しながらもペンを手にとらざるを得なかった若者の心を僕は想う。彼は天才的な作品を遺したかったわけではなく、世界的な名声を手にしたかったわけでもなく、印税収入でセミリタイアしたかったわけでもない。

世界史のまっただ中で置きている現在進行形の歴史を、TVでも新聞でもなく戯曲として、芸術として、遺さなければならなかった。後世に生きる人々に、現代を生きる僕たちに。それはきっと、70年後に西暦2083年を生きる人々が「風立ちぬ」を観るような気持ちだと想う。

 

7年前、あのとき僕は旅に出ざるをえなかった。全てを捨てて。僕には手にもつべきものが何もなかったからだ。今僕は、シリアにもエジプトにも行かない。ここでやるべきことがあるからだ。それが飛行機の設計でも、舞台の出演でも、特殊ネジの溶接でも、松屋のキッチンでも、それらは全部かけがえのない仕事だ。

 

話がズレた。今日、芝居が幕を閉じた、って話だ。

芝居、楽しかった。役者、おもしろかった。演劇、うつくしかった。この芸術を構成するあらゆる全てに感銘を受けた。俳優、演出家、作家、戯曲、衣装、照明、音響、舞台美術、劇場、そして感情共鳴装置の如くの観客の方々。古来は御神事であり儀式であったカミサマ事が、演劇として現代に生きていること。そのことに有難う御座いますと想う。

書ききれないなあ。俳優として体験したこと。劇団員として経験したこと。観客の輝く目や感動の言葉。裏方でミスって舞台監督に胸ぐらつかまれてベソかいたこと。

 

書ききれないので、今の気持ちだけここに残しとこう。

僕はいま、生きている。僕はいま、人間を生きている。風邪をひいている。心は悲鳴をあげている。本当はとても淋しい。身体はとてもつかれた。きらめくような経験をしている。バイオリン弾くの楽しい。心にいっぱい傷があって小出しにかさぶた取っては治してる。孤独。自分の道を一人で歩いている。前方には誰もいない。僕が行かないと誰もいかない道。そこに何があるのか知らないけど、何かが僕を待ってる。キラリと。思春期まっしぐらの僕の息子が客席にいるのを垣間みた。僕は僕が誇りに思う仲間を雲より高く讃歌した。キラリ。胸を張れと伝えた。

黒い湖の底で瞑想するような感覚。ここには特に何もないので、何もないまま何もせずに座る。背筋伸ばして。思えばいつでもここにいた。

よくがんばりました。おつかれさまでした、おれ。おやすみなさい・・・