真剣なものだけが美しい
「真剣なものだけが美しい」
チェーホフ作"かもめ"
劇団の先輩のTシャツのバックプリントに書いてあったその台詞、なぜか心に留まって、何かと思い出していた。
「きみは主題を抽象的な思想の領域からとつてきた。当然のことです。なぜなら、芸術作品は必ず、何らかの大きな思想を表現しなければならないから。真剣なものだけが美しい。でも、重要で永遠なものだけを描くんだ。」
理念、テーマ、超課題。
うちの劇団の演劇学校では、演出家コースの人間に、選んだ作品に対してこの三つを考え抜かせていた。
初めて演出をやる人間に対して、そんな究極に本質なことをやらせるなんて、と学長アニシモフさんに驚いた。
理念とは、
観客に何を伝えたいか。
テーマとは、
何について書かれた作品か。
超課題とは、
何のためにその作品を上演するか。
演出家は、選んだ戯曲をもとに、いまという時代にその場所(国や土地、その劇場)で演劇をやる意義を明文化する。はっきりクッキリと。さもなくば俳優と仕事ができない。ブレるからだ。
そして俳優は、与えられた役(文字通り与えられる)の与えられた設定や状況の中で生活をする。人生を生きる。時に二時間の戯曲に死までが描かれる。僕の処女役のイワーノフもそうだった。
俳優の仕事は、舞台の上で行動することだ。極めて能動的に、相手役に向かうこと。一人ではできない芸術、相手と交流するエネルギーによって生まれる作品の意味。作家でも演出家でもなく、「俳優の芸術」、それが演劇の本質。
よって、演出家は産婆さんだと言われる。俳優は仮想空間で人間の生活を創る、役を創る、その役が健康に誕生するよう手助けをするのが演出家の大きな仕事の一つ。その意味で演出家はアシスタントにすぎない。これはアニシモフさんがいつも言うこと。演出家は王様でも独裁者でもないのだ。
では、俳優が舞台上で、ほんとうに行動するためには何が必要か?
課題、障害。
課題とは、相手役にどうなってほしいか?ということ。例えば、泣いている女の子がいて、その子に笑ってほしい。
障害とは、それを妨げる、相手が持つ性質。例えば、悲観的である、頑固さ、など。
それが「貫通行動」。
その先にある、芝居の中では実現しない、人生を通しての秘密の夢、
それが「超課題」。
この二つを発見、創造することができたなら、それは役作りにおいての飛躍だ。
僕が演劇というものを始めて、二日目の稽古を終えたあとに演出家アニシモフさんに、
「この役に関して、僕がこれから自分自身で追求していくべきことはなんですか?」
と聞いたら、
「貫通行動について考え続けて下さい」
と言われた。
俳優なんてものをやったことのない人間に対して、だ。二ヶ月後に初舞台を控えて、しかも主役、イワーノフという作品のイワーノフ役、荷が重いにもほどがある、戯曲を読み込んでぜんぶのシーンを細やかに分析するのは不可能だと踏んだのだと思う。
だから、その人物はつまり、何をやっているのか?という問いをくれたのだと思う。
そして、曲がりなりにも僕は発見して、それを実行した。初舞台は、東日本大震災の10日後だった。千秋楽を観てくれた、僕を演劇の世界に導いてくれた先輩ワタナベさんは、「いまだにこの4年で、こーじはあの舞台が一番よかった」と言ってくれる。
えーと、なんの話だっけ...
そうだ、演劇という仕事について考えていたんだ。
・作家
・演出家
・俳優
大きくはこの三者の芸術。
作家は神様。
アニシモフさんが演劇大学院を卒業して国立劇場に就任したとき、既に有名な演出家だったお兄さんに言われたそうだ。
「力のない作品は絶対に扱うな」
アニシモフさんはその言葉に従い、天才作家の作品しか舞台にしない。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」、ドストエフスキー「白痴」以外は、本で読んで感動できたものはなかったけど、一年という時間をかけて舞台にしていくプロセスの中で、ブレヒトやドストエフスキー、チェーホフのことは、ほんのわずかながら感じることができた、とにかく、天才の天才的な作品には、無限のエネルギーが秘められていることだけは分かった。
だから僕は戯曲を書くことはないかもしれない。書いてみたいという意欲はある。しかし、「書かされる」までは書けないだろうと思う、本当には。宇宙飛行士のような目で、炭坑夫のような泥臭さでそれを体験するまでは。
そして演出家という仕事。
これはもう、宇宙飛行士と炭坑夫に同時になるくらい困難な仕事だけれども、やるしかねえ。こればっかりは、やるしかねえ。
そんなこんな言いながら、10月には舞台「古事記」。あっちゅう間だよ。
やべえなあ。。
10年、いや20年後の藤井宏次、あなたはに2014年の僕とこの世界はどう映りますか?