演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

お祭り男、ロシア国際演劇祭へ行ってきます。

声を発することを恐れて永らく口をふさいできたけど、このままじゃ終われん、このままでは死ねん、と思いブログを再開することにした。
ロマンやビジョンが先走ってばかりの自分から、現実にぶち当たって現実乗り越えてく自分へ、このブログもそんな珍道中になればいいなと思う。


さて、所属する劇団がロシアの国際演劇祭に招聘されて、首都モスクワと古都ウラジーミルで公演することになった。
ドストエフスキー作「白痴」と、日本最古の物語「古事記」を上演してくる。ロシアと日本の重厚な古典作品。

芸術監督のアニシモフさんが日本で演劇活動を初めて12年、待望の舞台逆輸入ということになる。
例えるなら、いつか僕が演出家になってイランに行き、イラン人俳優と共に舞台「コーラン」と、舞台「人間失格」を創り、イラン人と共に日本にやってきて上演する、というようなものである。こうして書いてみると、改めてすごいことだ!

ロシアには26歳のとき一度行こうとして行けなかったことがあった。
当時、世界放浪中でイタリアでロシアのビザを取ろうとして大使館に行ったら、ビザ代として50ユーロくらい請求され、「明日来い」と言われて行ったら、「ビザ降りなかった」と言われお金は返してもらえなかった。つまり、ボラれた(大使館にだよ!)。しかもアジアやアフリカならともかく、イタリアで!

そのロシアへ行く。無目的な放浪ではなく、超目的的に、ロシア人に演劇を観せに行く。
どうせ観せるなら、絶対「ブラボー!!」と観客総立ちにさせて、コサックダンスを踊ってもらって、ウォッカで乾杯して、そして同じ人間として生きることについて語り合ってみたい。

日本人はあんまり知らないけど、ロシアというのは実は演劇大国で、ロシアにおいて「俳優」という職業は医者や弁護士並みの競争率と難易度を誇り、まず演劇大学に入るのが超絶難しく、入学したらしたで全寮制で朝から晩まで俳優修行、それを4〜6年くぐり抜けたエリートが国立劇場へ公務員として就職する、といった具合らしい。そのロシアへ行く。観客は目が肥えている。半端なものは観せられない。ひーーー!!!


しかし僕らは勝負する土俵がちがう。僕らは日本人としてロシア人に舞台を披露しに行く、そこに意義がある。
日本において「俳優」という言葉が初めて現れたのは、日本書紀。物語は古事記と同じ「天岩戸開き」の一節。洞窟に隠れた天照大御神を呼び戻すために、芸術の神、アメノウズメノミコトが神懸かりのトランス状態となって踊り狂った様を評して俳優(わざおぎ)と呼んだ。「おぎ」とは招く、呼び寄せる、という意。つまり神を招くわざ、それが「俳優」なのです。その精神は主に「能」に引き継がれていて、能における幽玄の世界観はまさにそれ、目には見えない向こうの世界の何かを、目に見えるこちらの世界に表象させる、その舞台芸術。舞台古事記では、「能」や「狂言」の要素をかなり取り入れています。

でもよくよく思えば、「なんじゃこりゃー!」「すげーーー!!はんぱねーーー!!」って魂が震えるほど感動するときって、必ず誰かや何かが神懸かってる気がする。マラドーナだって、ジミヘンだって、ジョンレノンだって、浅田麻央ちゃんだって、長野オリンピックで大ジャンプを見せた原田だって、みんなそうじゃないか。

そう考えると、舞台にしろステージにしろコートにしろ、人が覚悟決めて立つ場所というのは、やっぱりどれも神聖で、そこに人が集まるのにはちゃんと意味がある。人生と自身のすべてを賭けて、一秒一秒集中して、エネルギーの全てを注ぎ込む。そういう姿ってやっぱり胸を打つ。リオ五輪の、卓球の愛ちゃん観てても、やっぱり胸打つものあったもんな。あの目よ、あの目。


あとロシアには、なぜか、自分の死地、みたいなイメージがある。
どこまでも続く雪の真っ白い地平線、そのだだっ広い白い大地の真ん中で、大の字に横たわって、溶けるみたいに死んでいく。
純白の安心感と安堵感、完膚無き満足感と達成感、そして光のような感謝と幸福感に包まれて、なぜか、白や黒や黄色い人達に囲まれて、安らかに死んでいく。いつかそんなイメージを見た。そんなイメージを見たもんだから、それから辛かったなあ、この10年。

と、話が飛んだけど、とにかく行ってきます、ロシア。
このブログでも、実況中継します!
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