演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

理想主義者、夢想家の出番ですよ!

心身ともに澄み渡り過ぎていてすこし怖い。
一秒一秒が惜しくて、もしかして自分が思ってるより自分の持ち時間は残り少ないのか・・・とか思ってしまう。

 

でもそれは残りの寿命がどれだけであっても、本当は変わらないのだろう。何よりも大切で代えが効かないのは、自分の時間であり人生なんだ。だとしたら、自分にしかできないことを探求して、それを発見したならば明るみに出し、それを助長し、一点集中することこそが、世界全体にとって最も良いことだろうと思う。

 

 

粉を溶いてつくるカフェオレが温かくて、PCから聞こえる青葉市子の歌声が切なくて、キーボードがトランポリンみたいに弾みがよい。思考も感性も近年になく冴えている。こんなときは、こんなときにしかできないことに、針の穴を通すみたいに集中したい。

 

それは何か?

 

いつか創る、演出家としての初舞台、その構想。
まだ目には見えなくとも僕だけに見えているその世界、そこに生きる人々の姿、彼や彼女の感情と人生。そして偶然そこに居合わせる観客、まだ荒削りな舞台をじっと見守る何百の目、そしてカーテンコールで聴こえる拍手の音、最後尾で観客に紛れている自分。

 

「この世界はすべて夢なんだよ」

と、ドストエフスキーは言っている、書いている。

「夢の中で見る夢、それが逆説的な現実としての舞台」

と、演出家のアニシモフさんは言う。

 

だとすれば、いい夢見ようじゃないか。自分にしか見れない夢、描けない夢、具現化できない夢。そのときそれは現実で、自分じゃない人達の目や耳にも届くものになる。それはすごい所業だ、人間にしかできない、人間としてなし得る、最も困難でありながら幸福に満ちた業だ。


僕が人生で唯一人、一目惚れした作家がいて、ウィリアム・サローヤンという、第二次世界大戦前に活躍したアメリカの作家で、彼の第二作「君が人生の時」をいつかどうしても演出したいと思っている。それは個人としての思いだけでなく、今の世界、今の日本に強く要請されているとも感じる。

その前文を記す。

 


君が人生の時に、生きよ。そうすれば、やがて、その善き時の中に、君の人生にとりまた君の人生の触れる他の如何なる人生にとりても醜悪なるもの、死なるものは影をひそめていくであろう。如何なる場所にも善なるものを求めよ。そして、それを発見したならば、その隠れたる場所より明るみに出し、それを自由な、自ら恥じざるものとせよ。物質や肉体にはなるべく重きをおくな。そうしたものは必ず死すべきものであり、消滅すべきものなのであるから。総ての物事に輝けるものを、腐敗を超越したるものを発見せよ。如何なる人間の裡にも美徳を見出し、それを助長してやれ。それは世の中の汚辱や恐怖の為に人にも気づかれぬような所に、悲しみの中に、余儀なく埋もれていたかもしれないのだ。分かりきったことは無視するがよい。それは明敏なる眼、温情ある心には値しないものだから。如何なる人にも劣等感を感じてはならぬ。また如何なる人にも優越感を抱いてはならぬ。この世の人間は誰だって皆君自身のヴァリエーションに過ぎないのだということをよく銘記せよ。如何なる人の罪も同時に君自身の罪に他ならず、また如何なる人の潔白も決して君自身に無関係なるものとは云えぬ。悪徳と不遜はこれを侮蔑せよ。しかし、悪徳と不遜の人間を侮蔑してはならぬ。これは、よく理解すべし。親切で温情ある人間たることを恥ずるなかれ。しかし、もし君が人生の時に、人を殺すべき時が来たとすれば、殺すべし。決して悔いることなかれ。君が人生の時に生きよ。そうすれば、その不可思議なる時の中に、君は世の悲惨や不幸を増すことなく、その限りなき喜悦と神秘に微笑を投げかけるであろう。


ここには人として大事な事のすべてがあると感じる。少なくとも僕にとって。僕にとってはお父さんみたいな人。
20人近い人物の人間模様によって、このキーメッセージが物語化されている。


この戯曲は、1941年、大恐慌から世界が泥沼と化していき、すでに世界大戦の気配が色濃かった頃に書かれた。サローヤンは言う。

「政治家同様、芸術家もまた、世界の成り行きに対して責任を持っている。戦争が始まってしまったとしたら、その責任は芸術家にもある。それを押しとどめる力を芸術は持つにも関わらずそれを果たせなかったのだ。そして戦争は始まった。始まった以上、私は楽観主義を貫く。始まったものはいずれ終わるのだ。芸術が兵士の発砲を止められないにしても、彼が故郷に戻ったとき、彼の心を癒すものに、彼の息子や娘に歴史を伝え得るものにはなるだろう。」


カウントダウンは紛れもなく始まっていて、その数字がいくつかは分からないが、刻一刻とその時は迫っている。
僕たちはその時計がアラームを鳴らす前に止めることはできるだろうか?可能性はあるはずだ。だとしたら、僕らの心の奥深くに潜む、戦いや争いを望む感情、子どもの頃に刷り込まれた、シューティングゲームやアクション映画に影響された闘争本能や破壊衝動、そういうものの存在にちゃんと気づいて、それを拳や銃ではなく、山の湧き水を掬う掌や野花を摘む指として使いたい。


こういうこと書いていると、自分はつくづくロマンチスト、現実から剥離した人間だなあと思うけど、もはや現実がフィクションみたいに馬鹿げたものになった以上、理想主義者はその理想を語るときではないか?僕はちゃんと二本の足で立っている、足の裏は土の感触をちゃんと感じている、丹田にも力は入っている、胸はときめく、喉元は言いたい事を言う準備をしている、二つの目は遠く遠く、地平線や水平線の向こうを見据える。


大丈夫、間違いなどない、大いに失敗すればよい、そこから学べばよい。ただ前に進む勇気、内にあるものを外に出す勇気、そういうものを携えて。


今日は体育の日、あと、目の日(10と10を横に並べると目みたいになる)とか言いますね。なんかそんな日。

 

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