演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

真剣なものだけが美しい

「真剣なものだけが美しい」

チェーホフ作"かもめ"


劇団の先輩のTシャツのバックプリントに書いてあったその台詞、なぜか心に留まって、何かと思い出していた。


「きみは主題を抽象的な思想の領域からとつてきた。当然のことです。なぜなら、芸術作品は必ず、何らかの大きな思想を表現しなければならないから。真剣なものだけが美しい。でも、重要で永遠なものだけを描くんだ。」


理念、テーマ、超課題。
うちの劇団の演劇学校では、演出家コースの人間に、選んだ作品に対してこの三つを考え抜かせていた。
初めて演出をやる人間に対して、そんな究極に本質なことをやらせるなんて、と学長アニシモフさんに驚いた。

理念とは、
観客に何を伝えたいか。
テーマとは、
何について書かれた作品か。
超課題とは、
何のためにその作品を上演するか。

演出家は、選んだ戯曲をもとに、いまという時代にその場所(国や土地、その劇場)で演劇をやる意義を明文化する。はっきりクッキリと。さもなくば俳優と仕事ができない。ブレるからだ。


そして俳優は、与えられた役(文字通り与えられる)の与えられた設定や状況の中で生活をする。人生を生きる。時に二時間の戯曲に死までが描かれる。僕の処女役のイワーノフもそうだった。

俳優の仕事は、舞台の上で行動することだ。極めて能動的に、相手役に向かうこと。一人ではできない芸術、相手と交流するエネルギーによって生まれる作品の意味。作家でも演出家でもなく、「俳優の芸術」、それが演劇の本質。

よって、演出家は産婆さんだと言われる。俳優は仮想空間で人間の生活を創る、役を創る、その役が健康に誕生するよう手助けをするのが演出家の大きな仕事の一つ。その意味で演出家はアシスタントにすぎない。これはアニシモフさんがいつも言うこと。演出家は王様でも独裁者でもないのだ。

では、俳優が舞台上で、ほんとうに行動するためには何が必要か?

課題、障害。

課題とは、相手役にどうなってほしいか?ということ。例えば、泣いている女の子がいて、その子に笑ってほしい。

障害とは、それを妨げる、相手が持つ性質。例えば、悲観的である、頑固さ、など。

その障害に対して、まるでベルリンの壁生卵をぶつけるように、課題を視覚化しながら行動し続ける。行動は、相手や状況によって変わり続けるが、一本の芝居を通して俯瞰的に眺めると、ある一本の線を成す。

それが「貫通行動」。
その先にある、芝居の中では実現しない、人生を通しての秘密の夢、

それが「超課題」。

この二つを発見、創造することができたなら、それは役作りにおいての飛躍だ。

僕が演劇というものを始めて、二日目の稽古を終えたあとに演出家アニシモフさんに、

「この役に関して、僕がこれから自分自身で追求していくべきことはなんですか?」

と聞いたら、
「貫通行動について考え続けて下さい」
と言われた。

俳優なんてものをやったことのない人間に対して、だ。二ヶ月後に初舞台を控えて、しかも主役、イワーノフという作品のイワーノフ役、荷が重いにもほどがある、戯曲を読み込んでぜんぶのシーンを細やかに分析するのは不可能だと踏んだのだと思う。

だから、その人物はつまり、何をやっているのか?という問いをくれたのだと思う。

そして、曲がりなりにも僕は発見して、それを実行した。初舞台は、東日本大震災の10日後だった。千秋楽を観てくれた、僕を演劇の世界に導いてくれた先輩ワタナベさんは、「いまだにこの4年で、こーじはあの舞台が一番よかった」と言ってくれる。



えーと、なんの話だっけ...




そうだ、演劇という仕事について考えていたんだ。

・作家
・演出家
・俳優

大きくはこの三者の芸術。
作家は神様。

アニシモフさんが演劇大学院を卒業して国立劇場に就任したとき、既に有名な演出家だったお兄さんに言われたそうだ。

「力のない作品は絶対に扱うな」

アニシモフさんはその言葉に従い、天才作家の作品しか舞台にしない。


宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」、ドストエフスキー「白痴」以外は、本で読んで感動できたものはなかったけど、一年という時間をかけて舞台にしていくプロセスの中で、ブレヒトドストエフスキーチェーホフのことは、ほんのわずかながら感じることができた、とにかく、天才の天才的な作品には、無限のエネルギーが秘められていることだけは分かった。



だから僕は戯曲を書くことはないかもしれない。書いてみたいという意欲はある。しかし、「書かされる」までは書けないだろうと思う、本当には。宇宙飛行士のような目で、炭坑夫のような泥臭さでそれを体験するまでは。


そして演出家という仕事。
これはもう、宇宙飛行士と炭坑夫に同時になるくらい困難な仕事だけれども、やるしかねえ。こればっかりは、やるしかねえ。



そんなこんな言いながら、10月には舞台「古事記」。あっちゅう間だよ。

やべえなあ。。



10年、いや20年後の藤井宏次、あなたはに2014年の僕とこの世界はどう映りますか?

ジャンプ

真っ直ぐに突っ切らなければならない
地平線の向こうを見て
真っ直ぐに突っ切らなければならない

言葉にしたことを未来から今へ手繰り寄せねばならない
それを手にしなければならない

なぜ死ぬのかと
なぜ死ぬと知っているのかと
それがいつだと誰が知るのかと
知らぬ存ぜぬ
食わぬ顔して突っ切らなければならない

もう見えている
はっきりと見えている
手はまだ届かない
ジャンプすればもしかして
なんとか間にあうかもしれない
このピッチでゆけば

いよいよ言い訳できない
ぜんぶ自分のせい

今は一休み今は一休み

夢をあきらめないこと

ぜんぜん理由も根拠もないけど、僕は演出家になるしかないと思っている。人生なに一つうまくいかないし器用にやれない。才能なんてあるかどうか分からないしやってみんと確かめようもない。「30も過ぎて芝居なんて、遅いですかね...?」って先輩に相談したら、「何やるにしても遅いよ笑」って言われた。

僕の命はあと何秒あるだろうか?太陽の周りを何周走れるだろうか?太陽だっていつか燃え尽きるなら、人間一人燃え尽きるのは当たり前だ。

ぼく一人で人間という生き物は完成しない。一つの時代をもってそれを押し進めることはできる。どうして人間なんて生きものがこの宇宙に必要なのか生まれたのか分からないし死ぬまで分からないけど、この世に生きる者にはすべて目的と意味があるのだ。意味がないわけがない。

日本はほどなく戦争に足を突っ込むかもしれない。僕の祖父母の世代が遺した反省を僕の父母の世代は活かしきれず、そして僕らはニヒルにあきらめを持って生きたせいで、その流れはもはや不可避なものになってきている。押しとどめることのできない川の流れのようになってきている。

僕はもう政治家にも起業家にもなれないしならない。自分で決めたわけでもなく、芝居という世界に出会い、心中することを誓い、今日もそこに立っている。

無力すぎて帰り道泣いている。雨が皆の上に平等に降っている。地下水は一万年かかって元に戻らないかもしれないほどに放射能に汚染されてしまった。この涙はどこに流れていくか。

いつか死ぬということ、まっすぐそこに向かって生きているということ、全ての人間に等しく与えられた運命。タイムリミットのないサッカーの試合なら、誰もがんばらない。終わりがあることを知ることはとても大事なことだ。それがいつかは分からなくても、それがいつであってもそれまでにやり遂げるべきことを設定すること。それがあれば、道半ばに倒れても、それは誰かに引き継がれる。


僕は演出家になりたい。美しい人間絵巻を描きたい。そもそも全ての人は、人と人との関わりは、いついかなるどんなものでも美しいということ、それを証明したい。

ちっちゃな宇宙で、それをぐるぐる回転させたい。下手くそでも懸命に命を燃やすこと。少年ジャンプのヒーローたちが、まだ弱っちい頃にとてもかっこいいこと、ものすごく強くなった頃にはもうかっこよくなかったりすること、そういうこと。

たぶん僕のほんとの持ち時間は、師であるアニシモフさんがこの世を去ってから訪れるのではないだろうか?その意志を継ぐと腹をくくれたときに。

10年後の僕、20年後の僕はどんな目でいまのぼくを見ているだろう?もしかしたら羨ましく思っているかもしれない。バスケを始めたばかりの中学一年生の頃を思い出すみたいに。入らないシュートを放ち続けたあの頃を思い出すみたいに。ポカリの味、バスケットシューズのにおい。コートのキュッキュッって音。


夢には味がある。想像力には手触りがある。現実よりも現実味のあるそれ。それこそが僕を後ろから突き進める。誰の目にも映らない光景が僕の眼球の裏に映る。それは他の誰にも見えないしできないこと。それは責任でもある。

365日のうち300日くらいは夢をあきらめそうになる。それは単なる妄想や勘違いなのではないかと、疑う。それは、甘えだ。

しのごの言わずにやれと。ただやれと。

ぼくは人間が好きだ。動物も植物も好きだけど、人間がいちばん好きだ。だから舞台に生きようと思う。人間だけで構成されたその宇宙で、人間以外のすべてを創る。

Human being.
人間が在ること。
それはつまりどういうことだ?



舞台なんかやってて何の意味があるんだろう?毎日思う。なんの生産性もないし、現実として何も動かさない。それはこの目では見えない。見えない。いや、見える。目を凝らせば。凝視すれば、焦点さえ合わせれば、それははっきりと見える。ぐらりと地軸が動くのが、ぐぐぐと人類が進む音が。



最終的に、僕は舞台に立つ人間ではない。そこに僕の胸はうずかない。僕は、観たいのだ、観たい世界と宇宙を、いつか観たあの景色、誰にも観せてもらうことはできない、自ら能動的に可視化するあの素晴らしい、美しい、川面に朝日が反射してキラキラ輝くようなあの光景。



生まれる前に知っていた、雲の上から観た人間絵巻を。いいなあ、って思ってた。すげえなあって思ってた。その不自由さを愛でていた。不自由さがあって自由ということを知るあの瞬間を。



人間と人間が糸みたいに紡がれて、模様を成していく。一人の人間がやることなんてつまらない。人間と人間がやることは最高におもしろい。人間、人間、人間。



いまこの地球の上に70億人。ぐるぐるぐるぐる、殺しあって愛し合って。生まれて死んで、殺して救って、助けて突き放して。

ほんとうに大切なことってなんだろう?愛する人?夢?仕事?仲間?信念?

僕が生まれる前と死んだ後に、この世界はどう違うのか?という問い。



兎に角、僕は演出家を志した。山を登り始めた。装備はない。体力はある。連れ合いはいない。独り。独りで頂上へ向かう、目を逸らさないこと。



これはマスターベーションと変わらないのだろうか。一人よがりだろか。ナルシズムだろうか。どうなんだろう。

真善美。真実と、善意と、調和。それを一同に会して、舞台化する。そこには光があり音があり人間がいる。人間がいる限り宇宙は終わらない。



では、僕はどんな演出家になり、どんな舞台を創りたいのだろうか?

それはやはり、人間が戦う姿ではないか。全力を尽くして挑む姿ではないか。何と戦っているのかは分からない。でも絶対に譲れないなにか、自分のためではない何かのために心を尽くしている姿、それは犠牲ではなく喜びと共に、哀しみと共に。己の弱さを嘆き、より強くなりたいと願い、涙し咆哮し、笑い喜び、何かを抱いて死んでいく。

ぼくはたくさん観た。たくさん観せてもらった。人間の生きる姿。美しい人間の姿。醜い人間の有様。過去も未来も背負って、今に泣き崩れる青年の鳴き声。絶望の底に一滴残った光。ぼくはもっともっと人間になりたい。



未来は、未来はあるのだろうか。未来はそこで待っててくれるだろうか。未来の僕は僕を信じてそこで待っててくれるだろうか。当たり前だ、彼が信じずに誰が僕を信じるだろう。信じるために生まれてきたのだ、彼と僕は。



人間は不完全な存在なのである。人間の存在意義は完全さにではなく、その不完全さを克服しようともがく姿にある。不完全さは各々違えど、その不完全さを克服しようともがく限り、全ての人間は発露する。精神がそこにはある。



失敗しよう!挑戦しよう!まずはやってみるしかない、やらないと何も分からない。敗北とは行動をとめることだ。百回でも二百回でも価値のないものを創りあげてみせよう。バタバタしよう。ガチャガチャしよう。



材料はすべてある。リソースは全部ある。はじめっから全部ある。そうやって生まれてきている。


信じるだけ。この目に映る未来の景色を。そして少しでも前へ前へ、勇敢さと朗らかさをもって。


今日は敗北の日、明日も挑もう。

演劇という山登り中のモノローグ

演劇芸術の頂。それはどこだろうか?

オリンピックの金メダルみたいに、誰かと競うものではなく、僕自身が僕自身として、この人生で登ると決めた山の頂き。

僕はそこへ辿り着けるだろうか?辿り着くまでに、何回諦めそうになるだろうか?

 

しかしなんと険しい道だろう。なんと罠の多い道だろう。なんと寂しい道だろう。前にも後ろにも道はない。魯迅は、私の前に道はないけど私の後ろに道はあると言った。この道は、後ろにさえそれがないように感じる。

 

なんだかんだ、演劇の道に片足つっこんで、4年がたった。4年もたったのに、自分の成長のしてなさに唖然とする。嘆きたくなるし、嘆いている。

しかしだ、4年たってまだ辞めていないということを、讃えよう。それは中々のことだ。4年経って大した成果も具体的な報酬も現れていないのに、まだ諦めていないのだ。まだ現実には現れていない、しかし僕の目がしっかりと捉えて話さないあの景色が、まだこの目に見える。それは他の誰にもまだ見えないし、他の誰にも着色を許さない。劇団の先輩にも、演出家にも、こればっかりは指し示せない。しかし僕は一人の夢想家としてそれを夢見る。夢でなくなるまで、へらへらと夢想し続ける。それを僕は才能とか運命とかだと思う

 

人には役割というものがある。それは芝居で役が割り振られるみたいに、ある。僕のそれは、俳優であり演出家である。僕は演出という仕事をしたことがない。それはサッカーをやったことのない幼稚園児が、サッカー選手になりたい、と画用紙に書くほどの幼稚さだ。この幼稚さこそが宝。

 

人には目的というものがある。目を向ける的のことだ。弓道の選手が、大事な大事な最後の矢を打つときのような集中力と眼差しを、僕はそこに向ける。それこそが、僕はこの職業を選ぶ理由。

全人類は未熟である。とても。僕はその一つの代表だ。未熟児の日本代表だ。よって未だ成長過程にある。では成長を促すものは何か?ごはんか?運動か?お母さんのおっぱいか?否、生きることである。本当の意味で、生きるということである。

そして演劇芸術は、それを指し示す。生きるということ。人間ということ。人間と人間が関わるということ。よって、演劇芸術は全人類の栄養足り得る。ここが出発点。

これを信じ抜くことは容易ではない。なんせ確認のしようがないのだ。結果が出ないし見えない。よってプロセスを信じ抜くしかない。いつか分かるとしたら、それは死ぬときかもしれない。

そして動機。これが大事。なぜそれをやるのかということ。目的と同様に是が大事。同じ目的を共有する同志であっても、そのモチベーションは千差万別。僕のそれは、ズバリ「子どもがメシ食えなくて死ぬこと」である。

とてもありきたりなお話だが、これは驚愕の事実である。今日も、この瞬間も、口に入れるものがなくて、心臓が止まる、まだ言葉も喋らない人間がこの世界にいるという事実。これは恐るべき事実。恐ろしい。その一端を担っている、むしろ知らず知らず加担しているという事実。それは憎むべきことだ。憎い。

そんなことリアリティを持って感じられない。とうの僕も対して感じてない。しかし、ごくたまに強烈にそれを感じる。なぜだかは分からない。そこから信じられないようなエネルギーが生まれる。そして僕は俳優修行に励むのだ。台本を手にとったり、役の分析をしたり、ロシア人演出家とちゃんと話すためにロシア語の単語を毎日勉強する。

ではなぜメシが食えなくて死なざるを得ない子どもが存在するのか?しかも1日に30000人も。毎日その数値が記録されていく。なぜどうしてそんなことになってしまうのか?原因の根本はなにか?

食糧が足りない?否。この地球で現在70億の腹を満たすのに必要な食糧はある。ではなぜそれは行き渡らないのか?経済的な理由か?政治的な思惑によってか?末期を迎えた資本主義のシステムによってか?yes、そのどれもがそうだ。では変えるべき対象は何か?そこに対して僕が取り得る手段はなにか?

そんな答えのでない自問自答を30年やり続けてきて、なぜだかどうしてだか、この歳になって、、、演劇。びっくりした。

 

僕は信じている。要は、人間であるということ。アインシュタインが言ってた。「我々の直面する重要な問題は、その問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない。」つまり、単純に言うと、僕は、僕たちは変わらなければならないということだ。成長しなければならないということだ。経済ではない、システムでもない、僕たち自身が。ではどうすれば人類はより良く変化することができるのか?

そんな答えのでない問いを、同じ問いをド真面目に考え続けた人達が、ちゃんといるということに救われる。それは作家であったり哲学科であったり科学者であったり、記録も記憶も遺せなかったおばちゃんだったり。僕は一人ではない。

とまあ、全人生についての指針は整った。あとはそれを最後まで信じ続けられるかどうか?だ、

 

先週劇団の先輩に相談した。「この歳から俳優なんか始めて、いったい僕はどの程度までいけるのか、やれるのか、もう遅いんじゃないか?って思うんです。」

先輩は言った。「もう何をやるにしても遅いんじゃないの?w」

その通りだ!と嬉しく思った。

 

 

とまあ大義名分はあれど、僕はいちばん大切にしたい人を大切にできていない。だから、本当にぜんぜんダメだなあと思う。いったい自分に何が足りないんだろう。僕は人生をナメてるのだろうか。他人をナメてるのだろうか。自分だけが正しいと思っているのだろうか。ごめんなさい、と宇宙に対して思う。やりきれなくなって布団にくるまりたくなる。

そんなことを話せる友達がいればなあと思う。いないので自分と話す。まずは、自分が自分の良き相談相手になってやろうと思う。まずは自分の言い分をおいて、相手の話を聞いてやろうではないか。心の声を。

 

まるで多重人格と思う。あの大義名分を偉そうに掲げている人は誰だろうか?僕だ。確かに僕だ。掲げているときは確かに実感があるのだ。今はない。今ここにいるのは、ただ愛する人の温もりを求める人。寂しいという感情。哀しい気持ち。自己嫌悪。のような自己愛。何もかもめんどくさい。明日バイトに行きたくない。足が臭い。もう替えの靴下がない。

 

どうしてこんなことをわざわざ人目につく媒体に書くのだろうか?誰かに慰めてほしいのだろうか?誰かに理解してもらいたいという甘えた気持ちか?

たぶんそれは、この職業を選んだ人間としての、特性?いや職業は関係ない。僕は。僕は誰と話しているのだろうか?

 

・・・少し分かった。こういう感情と言葉。これが演劇の、一つの材料だということ。僕が扱うのは、一流企業のビジョンとか企業理念とか戦略とかそういうものではなく、演劇という言語。こいつと心中するということ。この甘ったれてしみったれた人格を、頂まで連れていく足腰。

よく分からないけど、今僕は何かしらの行動をとっていると思う。わりと能動的に、積極的に、何かに対して働きかけている。リズムの悪いキータッチに、何かしらの強さがある。重心の低さがある。思考するということ。考えるな、ってよく言う言葉だけど、人間に与えられた一つの能力なのだ、ならば考えるなら考え抜こう。答えが出ないなら、問いを、壁に張って、寝よう。

 

今日という一日に体験したことが、これを書かせている。僕は自分が書いたものをノートでも日記でもほとんど読み返さないから、この書いている瞬間になんかの意味がある。意味がないなら書かない方がいい。ではその意味とは?

 

分かった。

 

僕は激励しているのだ。僕を。僕は僕を強く励ましている。がんばれと旗を振っている。合ってるぞ、間違ってないぞ、とエールを送っている。それは僕ではない人も、誰かも同じ事をやってくれている。それがこの言語。

 

十年後も、二十年後も、三十年後も、この道を歩いている。ずいぶん遠くまで来たなあと感じる。孤独さはさらに増した。そこに居る人が僕を見て微笑んでいる。うらやましがっている。ここにしかない味わいを。発展途上国でしか見られない貧しさと笑顔。その輝き。失いつつある何か。今しか戦えない強い敵。そして、生きているということ。

生きている。僕はまだ生きている。死んでない。メタファーとしても。目が、まだ生きている。来週、黒澤明さんの写真集を撮ったカメラマンの方に写真を撮ってもらう。できれば、この目を、その目から覗くこの目を、見せてほしい。見てみたい。そこに映る景色を。この目が見ているものを、紙の上に焼き付けてほしい。そういうことが出来る人が世の中にはいるんだと思う。

 

いい役者になれるかなあ。わからんなあ。可能性は、ある。

演出家。

はあ。。。もう何回か書いちゃったし、仕方ない。し、確かに、誰かが、やれ!って言ってる気がするんだもの。それが気のせいであっても、勘違いであっても、錯覚であっても、そのカードで僕は勝負に出てみたいと思う。一点張りで。賭けるものは、全人生。

 

あとは日々の努力。そしてこの道のりを、可能な限りゆっくり進むこと。スピードという概念を手放す事。なぜならこの景色は二度とは見れないからだ。本当は、頂になど辿り着きたくないということ。そこから見える景色、そんなものはとうに見えているのだから。だから、この道のりを味わおう。神様がくれたプレゼント。全宇宙からの、僕岳へのギフト。僕だけ、と書こうとしたのに変換ミスでダジャレみたいになった。笑

つまり、ユーモアを忘れずに、ってこと。無邪気に、朗らかに、歌って踊ってどんちゃん騒ぎで。

 

そうすれば、幻であっても、そこに人は集うだろう。

記憶をとりもどす

僕は記憶を取り戻しつつある。

遠く忘れ去られた宇宙の彼方にある記憶。

なぜここにやってきて、なぜここに今生きているのか。

 

もう少し現世的には、なぜ僕はすべてを捨てて旅に出て、

いちばん居たくなかったこの国に根を下ろしたのか。

 

わけもわからず、無我夢中でパズルのピースをかき集めて

ポケットに無造作に入れていたものが、

その全体像をわずかに表し始めている。

 

演劇をやろうなんて、役者になろうなんて、

二十代の間、一度も思ったことなかった。

なのになぜだかこの道に片足つっこんで、気づけば頭のてっぺんまでずぼりと入ってそこで呼吸している。

 

その答えは、今この瞬間ことばにすることはできないけれど、

確かな手触りとして、この指先や首筋や脇腹あたりにある。

ざっくり言うと「そのまま行け!」という声。

 

僕は演出家になりたい。

なりたいというか、そうなるしかない運命だと思っている。

運命論は、それを信じる者のみにその洪水が押し寄せ、宇宙全体が彼をそこへ運んでいく。

 

自分の卑小さと矮小さと未熟さを愛せ。

針の穴ほどの可能性に全生命をぶちこめ。

 

今日、うちの劇団の新作、

ベケット作「ゴドーを待ちながら」が幕を開ける。

たった26席の小劇場でそれは上演される。

たった26人がその事件を目撃し、その魂は咆哮する。

70億分の26にそのエネルギーが注ぎ込まれ、それは全宇宙に響く。

 

僕はずっと疑ってきた。

何十人や何百人に演劇を観せたところで、世界の何が変わるというのだろう?

この世界で起きているこの現状に対して、何ができるというのだろう?

意味なんてないんじゃないか?

 

 

 

今は、分かる。

 

 

 

まあまあしかし結局のところ、毎日しこしこ、俳優修行に取組むしかない。

この未熟さを愛して、花のつぼみに秘められた匂いを胸いっぱいに吸い込んで、

遥か高く夢を見て、刀を研ぐように志を研ぎ澄まして、

この両足で土やアスファルトをどっしり踏みしめて、

腹を立てて哀しくて歌を歌って、孤独であることをちゃんと知って、

そして生きることの喜びに胸躍らせて!、いつか来るその日まで、僕は生きていく。

いつかこの呼吸が止まるまで、いつかこの心臓が止まるまで、

この憂いに満ちた世界で笑って笑って生きていく。

 

 

それは素晴らしいことだ。

 

 

まだ生きててよかった。

がんばろう。

大雪のなか想像ツアー

13年ぶりの大雪が東京で降っている。

13年前というと2001年で僕はまだ大阪にいたから、僕の知る限り東京での最大雪だ。雪で仕事も休みになって、お茶を飲みながら川上未映子さんの「愛の夢とか」を読んでいた。

今日、うちの演出家のアニシモフさんがロシアから来日した。アニシモフさんが来日すると嵐がきたり大雪が降ったり、天候がよく荒れるのは気のせいではないと思う。明後日からは舞台本番。舞台で弾くバイオリンを練習しようかと思うが、練習しなきゃ、と思う時点で楽しめてないなあと思う。

 

浮かんでは消えるイメージがある。未来のある一点。劇団の姿。音楽がそこにある。寄せては返す波のように、人が出入りする。ごはんを一緒に食べている。圧倒的に素晴らしい何かがそこにあって、僕はそれを噛みしめて泣いている。

 

演劇をやろうなんて思ったことは人生で一度もなかったのに、三十歳手前でアニシモフさんに出会ってしまい、気がつけば演劇をやるしかない人生になっている。

しかしまで演劇というものが、手のひらの上でふわふわと粉雪のように舞う様な、なんだか輪郭のはっきりしないものとして僕の中にあって、それはカタチを与えられるのを待っているように見える。しかし目には見えないものとして、はっきりと存在している。

 

人に非らず優れたもの、と書いて俳優。この言葉が初めて日本語として現れるのは日本書紀である(たしか)。その本当の意味でのこの職業は、日本で一般的にみなされているそれとは、かなり異なる。それは例えば、100年前に「政治家」と呼ばれる人々に与えられていた意味や印象と今のそれが違うように。

 

僕は本当の俳優になりたい。そして本当の人間になりたい。どうしてこの世界に人間が必要なのか?その答えとしての人間存在になりたい。

 

心意気や夢や意志だけでは、全然足りない。技と熟練がいる。声の訓練。身体の鍛錬。文学的素養。演技の核を成す、集中力と想像力。「役」を創るための戯曲分析と、人物造形をつくるための引き出し。何もかもが要るし、足りない。

そして僕は本当には、演出家になりたい。それには、音響、照明、衣装、舞台装置、、、演劇という総合芸術を成すためのあらゆる素養が必要となる。気が、遠くなる・・・

 

僕にはあと何年の人生があって、どれだけの機会と材料が僕に与えられるだろうか?

僕はいったい、どこまで行きたいのだろう?

楽しいのがいちばん、みたいな言葉があるけれど、それもまた本当だけど、それでは半分しかない。残りの半分、血を吐くような苦しみを経て、役や、舞台作品という子を出産するのだ。

アニシモフさんは言う。「演出家という仕事をやっていて、喜びや幸せを感じられることなんて滅多にありません。その多くは苦しみ、苦悩と葛藤、怒りと悲しみです。自分の創った舞台がよくなかったとき、家に帰ると死にたくなります。それでも、ほんのたまに、信じられないような素晴らしい瞬間を舞台上で目撃することがある。その一瞬にすべての意味が発露するのです。」

ロシアでは、演出家という職業は、宇宙飛行士の次に難しい仕事だと言われているらしい。あっちでは、演劇大学で俳優の訓練を受け、その上で演出家の過程を修了した人しか本当の演出家にはなれないから、それこそプロ野球選手か、もっと高い倍率の職業である。人間技とは思えないようなことをやってのける、やり続ける仕事である。

例えば今やっている、ドストエフスキーの「白痴」という作品、20以上の人物が登場し、各々の俳優が日々役作りに励んでいるわけだが、アニシモフさんは全ての登場人物の全シーンの演技を、神業のようにやってのける。稽古中に模範演技を見せてくれるのだが、いつも爆笑したり、涙がこぼれたり、胸が張り裂けるようなものを見せてくれる。

とてもじゃないけど、僕はそんな風になれないなあ、と思う。ではどんな風になれるのか?僕はどんな風になれるのか?どんな風になりたいのか?

 

可能性という一縷の望み。

人間に秘められた、火山のような才能の噴火口。地下何百メートルかにある金鉱。僕は人生で一度だけその扉が開いたことがあった。二週間だけの、神様からのプレゼントだったあの時間。人間という生き物はここまでのエネルギーをその内に秘めてるのか!と驚いた。

それを開く鍵は?「なんのために?」ということだ。なんのために演劇をやるのか?世界で起きている出来事。それをどうとらえ、どう関わっていくか?自分が行きている間に変化させるべき事象。残したい種。自分が死んだあとに世界に望むこと。そういう純粋な動機、まっすぐな思い。それが濾過されて濾過されてまっさらに広がったとき、何かが起きる気がする。始まるというか。

 

そのためには、信じることだ。自分を。世界を。演劇を。

そのためにも、一歩一歩階段を。一段一段かみしめて、味わって、笑って泣いて苦悩して、しかし目は斜め上をまっすぐに見て。

明々後日はブレヒト作「コーカサスの白墨の輪」。兵士の役と音楽家の役。誠実にこれに取り組もう。

 

 

今日の公演。ドストエフスキー「白痴」

今日は久しぶりにドストエフスキー「白痴」の舞台に立った。ユダヤ人のエリート役人の役、ガーニャ。金のために政略結婚しようとするが失敗し破滅していく役。

 

半年ぶりにやる役だったけど、前より落ち着いてやれた。ただどちらにしても、役のことを全然分かってないと、分かった。演出家アニシモフさんからも「役作りの方向性はいいから、もっと自分で色々役を創ってきなさい、あなたの役なんだから」と言われた。

 

今日の感想。舞台はやっぱりおもしろい。もっと舞台に立ちたい。もっと稽古したい。もっともっと芝居を追究したい。一人前の役者になりたい。共演者に刺激を与えられる存在になりたい。共演者のインスピレーションの源になりたい。戯曲に秘められた謎を、媒体として観客に伝えられる人になりたい。舞台上でもっと自由になりたい。もっと想像力を、蜜柑の果汁のように瑞々しいものにしたい。そして、もっと集中力を。

 

俳優修行の道はこれから50年くらいは続くのだろうと思う。一朝一夕には行かない。会社で仕事をしていた時は、2〜3年である程度のスキルを身につける事はできたけど、演劇芸術は・・・道のりが長い。時間軸のスパンが、、、長い。根気のいる仕事。辞めていく人も多い仕事。だからこそ、やり続けたいと思う。

 

子どもの頃の遊びのように、めいっぱい無邪気になりたい。鬼ごっこでギャハギャハなったり、ドッジボール泣くまでやったり、そう言う頃の、夢中になる感じ。演劇を、そんな風にやれたら、どんなに楽しいだろう。

事実、今いちばん面白い遊びだと言える、演劇は。他にこれほど面白いと思えることは、ない。アニシモフさんと遊ぶのは(稽古つけてもらうのは)信じられないくらい面白い。

 

今日の舞台前の稽古でアニシモフさんは言った。

「いい人になろうとしないで下さい。それはつまらない。心を熱くして下さい。温かく、ではなく熱く。憎悪であってもないよりはいい。とにかく、生きた心をもって舞台に上がって下さい。心というものを忘れた人達に、それを見せるのが私達の役割です。だから、生きた心を、熱い心を劇場に持ってきて下さい。それさえあれば、技術上のことその他すべてはその心についてきます。」

「そして信じるものを持ってください。何を信じるかは各々の自由、ただし何でもいい、本当に信じられるものを。その信念こそがエネルギーになります。」

「役者になんて、ならないで下さい。そんなものはこの世には必要ない。芸術家に、なって下さい。芸術家としての役者、それこそが舞台に必要なのです。」

 

アニシモフさんに師事して3年、いつもいつも金言をもらっている。アニシモフさんがいつか死んだあとも、きっといつまでも残っているような言葉達。きっと何百年も前から、人から人へ伝えられてきた言葉なんだと思う。僕はちゃんと受けとりたい。受けとって、次へ。そのためにも、今ちゃんと生きる事。

 

よし、がんばろう。