演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

演劇の奇跡を目撃した

12月の新作舞台に向けて稽古が始まって今日で1週間。

ドイツ人劇作家のブレヒトが戦時中の1945年に書いた、

コーカサスの白墨の輪」。

 

今日は演劇の威力を目撃した一日だった。

朝11時から始まった稽古が夜9時に差し掛かった頃、それは起きた。

僕は舞台袖で稽古を観ていた。

 

戯曲の中でも中心となるシーンの一つ。

男女の間で交わされる詩のような台詞。というか詩。

僕のすぐ横で歌われる台詞。

それが耳に届いた瞬間、その言葉は津波のように僕の頭と心に押し寄せ、

無数の景色がフラッシュバックした。

フルカラーの動画で閃光のように脳裏を駆け巡った。

 

そこにある感情が僕の全身を襲い、感動のあまり心臓が溶けるかと思った。

全身の細胞がきゅうっとなって、光に抱きしめられたような気分。

清水が血管という血管を流れ、朝陽の射し込む教会で洗礼を受けたようだった。

 

嗚咽しそうになるのをこらえ、なんとか呼吸をするが、

溢れる涙で目を開けることができなかった。

しかしなんとか感動をこらえて、目を開けると、

 

 

俳優が踊っていた。

 

 

ゆっくりと右手が天に掲げられ、

ローブのような衣装が腕を滑り落ち、

背筋を伸ばし真っすぐに前を見て、

俳優が踊っていた。

 

台本のト書きにもなく、演出家の指示でもなく、

また俳優が持ってきたアイデアでもなく、

それはそこでその瞬間、創造されたのだった。紛れもなく。

 

それを目撃した瞬間、

舞台の景色が眼球の後ろ側から脳髄までを貫いたような感覚におそわれた。

鋭角で鮮烈な美しさ。

真空からやってきた澄んだ美しさ。

 

 

演出家は狂喜した。

立ち上がり、驚愕の表情で尋ねた。

 

「どうして今、踊れた!?」

 

「・・・・・」

 

俳優は答えることができない。

 
「私がそこに居たら、やはり踊っていた。しかし私が言ったからでなく、
 あなたの身体が今踊ることを求めたという事実がとてつもなく大きい。
 よし、よし、よし!よくやった!」
 
アニシモフさん(うちの演出家)はそこで芸術が立ち上がった喜びを
噴水のようにまき散らしていた。
そんな風にアニシモフさんが喜ぶのを久しぶりに見た。
 
 
そこで目撃したものをなんとか記録しようといま努力しているが、
そのとき生身で体験したあのエネルギーはあそこにしかない。
文章でも映像でも音楽でもなく、生身の人間の、演劇によるエネルギー。
あんな風な魂が揺さぶられる感動は久しぶりだった。

たぶん、本当の芸術がもたらす、魂に届く感激だった。

2年前に初めてこの劇団のハムレットを観たとき以来くらいの感動だった。

 

人間が、本当に美しく見える瞬間なんてそうそうない。

いや実際はいつでも美しいのだけど、それは見る側の精神によるものであって、

その存在があるがままに圧倒的に美しいなんてことはそうそうない。

にも関わらず、そういう瞬間は確かに在る。

人間が人間として本当に美しい瞬間。

 

 

演出家のアニシモフさんは言う。

 

「真実だけが人の心に届き、人の心を癒すことができる。真実だけが美しい。」

 

3年前、演劇のエの字も知らなかった頃、

ダライラマの講演会で偶然隣に座った役者さんがくれた公演チラシに、

アニシモフさんの写真と共にその言葉が書いてあったのを思い出す。

 

それを見たとき、「その通りだ」と僕は思った。

たぶんその日僕は、足の小指くらいをこの世界に突っ込んだのだろう。

 

 

演劇に携わることができてよかったと、心底思った一日だった。

いつか僕もあんな瞬間を人様に見せることができるだろうか。

一生を捧げるに値する仕事だ。演劇芸術は。

どんな結果が残せるかはともかく、本当の芸術を目指したい。

目や耳を楽しませるエンターテイメントではなく、

完膚なきまでに素晴らしい、生きた人間の魂に届く、

芸術としての演劇を追究したい。

それほどにこの世界にとって価値のあるものだ、演劇は。

演劇芸術を手段とするのではなく、演劇芸術の手段となりたいと思う。

 

 

こんな芸術の秋な一日を僕にくれた、

ブレヒトとアニシモフさんとこの劇団に心から感謝します。

 

明日も朝から稽古。

風呂入ってしっかり寝よう。