演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

寝起きに芝居のこと考える

夜11時から昼の2時まで爆睡した。複数大量の夢を見て現実と区別つかず。腹が減ってメシを食おうと思うが何もなく作るのも面倒だが味噌汁作ろうと思う。喉が渇いたのでジュースを飲む。

そして思うが、寝て起きてメシ食って寝るために生きてるのではないということ。もちろんそれが生きることの基本だけど、生きるために食うのであって、食うために生きるわけじゃない。じゃあ生きるとはなにか?

目下やるべきことは3週間後に本番を迎える舞台の役作りと、バイオリンの練習。今回、出演4作目にして初めて脇役と言われるようなものをやり、悩む。なんかメインの役を邪魔しないように、とか、変な気の使い方をしたりして、舞台でどう存在していいものか解らない。

あと作家ブレヒトの作風について。演劇用語でいう「存在方法」について。アニシモフさんは言う。「ブレヒトに限っては、舞台上で自分自身である必要はない。これは私自身の経験だと信じる必要はない。この作品は寓話。寓話とは、世界のどこでも歴史上のどこでも同じように語られるもの。寓話における王様とは?寓話における母親とは?寓話における兵士とは?それを役として形象させたとき、そうして関わる人間達はひとつの風刺画になる。それをブレヒトは異化効果と呼んだ。」

 

あと、自分があまりにも経験不足で、力不足であることを恨む。作品の形成に貢献できることがあまりにも少ない、と感じてしまう。つまり観客や世の中に対しても。やっと道を見つけて、自分の資質と運命に一点集中してるつもりだけど、、、言い訳やめ!一生懸命やるしかないし、思い切り遊ぶしかないし、もう舞台立つしかない。

 

がんばろ。