演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

記憶をとりもどす

僕は記憶を取り戻しつつある。

遠く忘れ去られた宇宙の彼方にある記憶。

なぜここにやってきて、なぜここに今生きているのか。

 

もう少し現世的には、なぜ僕はすべてを捨てて旅に出て、

いちばん居たくなかったこの国に根を下ろしたのか。

 

わけもわからず、無我夢中でパズルのピースをかき集めて

ポケットに無造作に入れていたものが、

その全体像をわずかに表し始めている。

 

演劇をやろうなんて、役者になろうなんて、

二十代の間、一度も思ったことなかった。

なのになぜだかこの道に片足つっこんで、気づけば頭のてっぺんまでずぼりと入ってそこで呼吸している。

 

その答えは、今この瞬間ことばにすることはできないけれど、

確かな手触りとして、この指先や首筋や脇腹あたりにある。

ざっくり言うと「そのまま行け!」という声。

 

僕は演出家になりたい。

なりたいというか、そうなるしかない運命だと思っている。

運命論は、それを信じる者のみにその洪水が押し寄せ、宇宙全体が彼をそこへ運んでいく。

 

自分の卑小さと矮小さと未熟さを愛せ。

針の穴ほどの可能性に全生命をぶちこめ。

 

今日、うちの劇団の新作、

ベケット作「ゴドーを待ちながら」が幕を開ける。

たった26席の小劇場でそれは上演される。

たった26人がその事件を目撃し、その魂は咆哮する。

70億分の26にそのエネルギーが注ぎ込まれ、それは全宇宙に響く。

 

僕はずっと疑ってきた。

何十人や何百人に演劇を観せたところで、世界の何が変わるというのだろう?

この世界で起きているこの現状に対して、何ができるというのだろう?

意味なんてないんじゃないか?

 

 

 

今は、分かる。

 

 

 

まあまあしかし結局のところ、毎日しこしこ、俳優修行に取組むしかない。

この未熟さを愛して、花のつぼみに秘められた匂いを胸いっぱいに吸い込んで、

遥か高く夢を見て、刀を研ぐように志を研ぎ澄まして、

この両足で土やアスファルトをどっしり踏みしめて、

腹を立てて哀しくて歌を歌って、孤独であることをちゃんと知って、

そして生きることの喜びに胸躍らせて!、いつか来るその日まで、僕は生きていく。

いつかこの呼吸が止まるまで、いつかこの心臓が止まるまで、

この憂いに満ちた世界で笑って笑って生きていく。

 

 

それは素晴らしいことだ。

 

 

まだ生きててよかった。

がんばろう。