演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

五里霧中

ログとして自分の為に書く。


凡そ3年ぶりのストレートプレイの集中稽古。ここ数年は儀式劇としての古事記とか、単発での公演とか、あと一年芝居を休んだりとかで、ここまで集中稽古する機会がなくて、そのことによってここまで心身ともに俳優であることを忘れてしまうものかと唖然としている。


初めてやったチェーホフのイワーノフという芝居の台詞を思い出す。


「僕は自分が何者なのか、何のために生きているのかも分からず、影のように人々の間を彷徨っているのです。」


舞台のうえで、まさにそんな状態と心境になってしまった。正直もう自分は俳優やれないんじゃないか、という疑問と寂しさがある。


それが、執着なのか、単に自分の才能を見限りそうになってるのか、情熱が失せてしまったのか、どれなのか分からない。



改めて感じるのは、俳優という職業の困難さと求められるものの高さ、鍛錬の必要性、何より意志と目的の重要性だ。


楽しいからとか、好きだから、ってだけでしれっとやれることじゃない。音楽はそれでもできる、楽しむために趣味として。スポーツもできる。でも俳優は、演劇は、それが真剣なものであるなら、それは許されない。あと覚悟。


進退を問われてるし、問うてる。そして進むなら、もう退路は断たねばとも思う。


にも関わらず、3日後にはロシアに演劇フェスティバルに参加しに行く。全くもって準備ができていない。



あ!これは何度も見た夢。

舞台に立つ、という段になって、全く準備ができてなくて、オロオロ狼狽する、という夢。俳優の人たちはよく台詞をド忘れする悪夢を見るらしいけど、それはないのだけど、もっと内的に、準備ができてないってやつ。



そして演出家、という職業。

これはもう、神の領域というか、宇宙飛行士なみの知識と鍛錬と覚悟とそれに選ばれること?村上春樹がエッセイに書いてたような、「作家としての資格」のようなもの、さえ必要だと感じる。


よっぽどじゃないとできん。遊びならできるけど、今うちの劇団でやってるような芸当にはとうていたどり着けない。



はぁ、、、

どうしよう、、、



でも、それでも、やってみたいんだよなあ。こればっかりは説明がつかん。からには、やってみるしかない。という結論。やらずに死んだら絶対後悔するもんな。



明日は古事記の稽古。

八百万の神々に捧げてきます。