演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

家族ってなんぞや?

驚きの事実。


Facebookでつながった人をカテゴリー分けする機能がある。僕のカテゴリーは、
芸術家
旅友達
ビジネス関係
コーチング仲間
音楽仲間
家族
である。ちなみに最後の家族は、シェアハウスで同居していた友達をカテゴリーにいれている。

今日前に住んでいたバウハウス高円寺で書初め大会があり、久しぶりに会った元同居人に言われた。

「こうじくん、私、こうじくんの家族なの?」

えっ!と思って、同居人って家族みたいなもんじゃないの?!と思ってちょっと傷ついていたら、

Facebookで家族ってカテゴリーすると、『藤井宏次さんがあなたを家族として追加しました』って通知されて、『家族関係を選んで下さい』って選択を迫られるんだよ」

と言われた。そんな機能は露知らずだったので見せてもらうと本当にそんな機能があり、その家族関係とやらの選択肢を見てみると、
息子
おじ
従兄弟
祖父
孫息子
継父
継息子
継弟
義父
娘婿
義弟
義兄
パートナー(男性)

とあった。これは確かに選べない、確かに僕はどの選択肢にも当てはまらない、これは確かに承認できない。。。


しかも追い打ちをかけるように、「こうじくん博愛主義者だから、酔っ払ってテンション上がって、『人類皆兄弟、みんな家族だ!』とか思ってFacebookでつながってる全員に「家族」のカテゴリーで申請したのかと思ったー笑」
と言われた。w

当たらずとも遠からずだけに否定はできないが、家族、そしてどういう家族と聞かれて先の選択肢から選べとなると、確かに選べない。

皆さん、家族って何なのでしょうか?血のつながりでしょうか?魂のつながりでしょうか?結婚すれば家族なんでしょうか?僕は何なのでしょうか?

笑い話のようで、ちょっと凹んだお話。そんな体験もまた、演劇芸術家の創作材料。

悩むことの意味

大好きな友達、空間演出家の響くんに久しぶりに会った。響くんはフジロックサマソニなどの音楽イベントでのステージやエリア全体の空間演出をやっていたり、お祭りや野外フェスのデコレーションを生業としている。

響くんの作品(携帯だと見れない)

http://fotologue.jp/hibikibiki/

 

人としてもアーティストとしても敬愛する、自分のやりたいこと創りたいものでメシを食えている響くんだが、悩みはあると言っていた。

まず、仕事柄あたたかい季節にオファーが多いので、春夏秋が繁忙期で冬は閑散期らしく、今の季節は家にこもっての創作作業が多くなるらしい。しかも響くんは誰にもどこにも属さず一人で仕事をしているので、そうすると世の中からの疎外感を感じるのだと言う。先月舞台が終わり、現在就業もしていない僕はもちろん社会からの疎外感というか隔絶感をたっぷり味わっているところだが、まさか響くんがそんな風に感じているなんて驚きだった。春がくればまた仕事で忙しくなると分かっていても、そうなんだ、と。

そしてもっと本質的な悩みとして「今創っている作品が、今現在の自分の鏡になっていない」と言っていた。過去10年に創ってきた作品の延長線上にあってしまって、飛躍がない、と。ここ数年で、自分の創るものが世の中に求められる度合いがどんどん高まって仕事も増えてお金も入るようになったけど、作品自体がぐっと成長していない、と。「それは簡単に言うと、おもしろくない、ってことだよ」と。おもしろくなくはないけど、空間演出の仕事を始めた頃のような、毎回毎回の新鮮さや試行錯誤や、そういうものが今足りない、と。「積み重ねてきた経験がじゃまになってるの?」と聞くと、「そうとも言える」と言っていた。

ああ、アーティストは、みんな悩むんだな、って思った。何年何十年やっても、悩みが尽きることはないんだなと。本気でやっているアーティストは、多くがその活動でメシが食えれば、と夢見て、そこに辿り着くのは一握りなんだろうけど、アートでメシ食えるようになったって、また別の悩みがあるんだなあと思った。ま、そりゃそうで、芸術においての悩みは、本質的には食える食えないって話ではない。最高に素晴らしいものが創れるかどうか、って話だ。今の自分が、最高に素晴らしい芸術をやれるかどうか、って話だ。ちなみに僕はできてません。ちくしょう。

そこでちょっと自分を省みて、芸術生活における自分の悩みは何か?と洗い出してみた。

 

1.演劇芸術でメシ食えてないこと

2.観劇に値するレベルの俳優になるためにかなりの時間を要すること(最低でも10年?)

3.早く成長するために毎日でも稽古したいが、しばらくは月3日しか稽古がないこと。

4.自分がやっていることが世の中の役に立っていることの実感が持ちにくいこと。

 

1〜3はずっと思ってたことだが、4は今日はっと気づいた新発見だった。具体的に言うと、演劇によって日本社会がよりよくなったり、世界で飢えてる人とかが救われたりするのかなあ?ということである。芝居をやって、観た人が「おもしろかった!」とか「感動した!」とか言うのを聞くことはあっても、それがちゃんと社会とか世界にインパクトを及ぼしていくのか、その実感がない。

逆の例で言うと、昔ベンチャー起業時代にやっていた「20代と成長企業のマッチング」。「自分らしく働く20代が増えれば、日本は元気になる」というビジョンでやっていたのだが、その頃は「ウェブサイトの登録者が20万人突破した」とか「就職が決まった人数が100人超えた」とかそういう節目節目に、自分達のやっていることの効力感を感じる事ができた。

同じように先月の舞台を数字で見ると、「1000人の観客にブレヒトの芝居を観てもらうことができた」ということ。この芝居の上演の目的は「日本人が恐れを手放して自分自身を大胆に生きること」だった。それは果たして実現しているのだろうか?これからその効力が表れてくるのだろうか?

そういう大きなことは置いとくにしても、一番観てほしかった人にさほど喜んで楽しんでもらえたなかった、という事実が突き刺さる。これはエゴなんだろうか。集団芸術において、誰か個人に喜んでほしいとか望むのは間違いなんだろうか。でも自分の大切な人のためにすらならないなら、いったい誰のためにやるのだろう?先生や先輩は言う、「結果を求めちゃいけない」と。僕はよく分からない。

いずれにしても、突き詰めると自分の力不足、経験不足、努力不足、すべての不足に行き着く。歯がゆい。こんなブログ書いてて何か意味があるのだろうか。意味がないことはやっても意味がないから、もし意味がないなら早く分かって、書くのをやめたい。悩むために悩んでても仕方ない。何かの答えや気づき、行動につなげていこう。

もう朝の7時。お風呂をはったのに入ってない。お腹空いた。明日はクラムボン原田郁子ちゃんのライブ。つかれた。寝よう。

絶対不可侵領域。自分の魂だけの源。死んだキクが言っていた、世界はあるがままに美しいということ。

夕陽が斜めに落ちていく。水面がひかりを映す。子供が凧上げをしている。雁が群れをなして青白い空を飛ぶ。枯れた花がくっつき虫になる。ギターの単音。向こう岸で石を投げる少年。夕陽が大きくなっていく。

死んだコリッキーさんが言っていたこと。一人でできることなんか何もないということ。君を山の神様が護ってくれているよ。

生きることは苦しい。これは幻。それはまどろみ。

生きることは歓び。世界はあるがままに美しい。人間に生まれてきて本当によかった。

未熟すぎること

だめだ、頭デッカチだ。ここ最近書いてること、ただの思考、ただの論理だ。温度がない。大人。これはたぶん僕の悪いクセだ。

分かる事は、僕は技術と経験においてあまりにも未熟で無力であること。才能についても確信がないこと。不釣り合いなくらい使命感だけはあること。

芸術家というのはいまだよく分からない。起業家とか、旅人とかいうのはすごく実感があった。その時々の自分のアイデンティティだった。でも芸術家ってよく分からない。

例えば天下太平の江戸時代のような時分であればじっくりやってればいいのかもしれないけど、幕末みたいな今、大変な思いをしている人がたくさん居る中で、現状の無力さはちょっと絶望的だ。。

思えば僕の初舞台は3.11の1週間後だった。鬱病で自殺する役だった。こんな時にこんなことやってる場合なのかと一万回くらい自問自答した。被災地に行って、がれき処理の肉体労働してた方がなんぼか役に立つのではないかと。実際それもやった。でもやっぱり、舞台に戻るしかなかったし立つしかなかった。それは一つの宿命だと思った。

やっぱり最低10年くらいはかかるんじゃないか、まともな演技が多少でもできるようになるまで。それまで世界は待ってくれるだろうか、世界は崩壊せずにいられるだろうか。誰にも向かわずに想像力とパソコンに向かうなんて、なんか、どうなのかな。いいのかな。起業時代、どれだけ夢や思いがあっても、実力が追いつかなければ結局負ける、崩壊してしまうってのを目の当たりにした。あんな思いは人生で二度としたくない。そのことを忘れないように身体に印を残した。

あ、分かった。今僕は、ぜんぶ自分に向いてんだな。心が他人に向いてない。外の世界に向いてない。そういうことだ。

外に出よう。とにかくどこかへ行って歩いて人に会って、話して考えて、いろいろトライしてみよう。できれば誰にか叱られたり罵倒されたりするくらいに。それくらいでちょうどいいと思う。

よし、明日は早起きして一生懸命やろう。

君が人生の時

今春やる芝居の作家、最も敬愛する劇作家ウィリアム・サローヤンの戯曲「君が人生の時」の前文を記す。

 

君が人生の時に、生きよ。そうすれば、やがて、その善き時の中に、君の人生にとりまた君の人生の触れる他の如何なる人生にとりても醜悪なるもの、死なるものは影をひそめていくであろう。如何なる場所にも善なるものを求めよ。そして、それを発見したならば、その隠れたる場所より明るみに出し、それを自由な、自ら恥じざるものとせよ。物質や肉体にはなるべく重きをおくな。そうしたものは必ず死すべきものであり、消滅すべきものなのであるから。総ての物事に輝けるものを、腐敗を超越したるものを発見せよ。如何なる人間の裡にも美徳を見出し、それを助長してやれ。それは世の中の汚辱や恐怖の為に人にも気づかれぬような所に、悲しみの中に、余儀なく埋もれていたかもしれないのだ。分かりきったことは無視するがよい。それは明敏なる眼、温情ある心には値しないものだから。如何なる人にも劣等感を感じてはならぬ。また如何なる人にも優越感を抱いてはならぬ。この世の人間は誰だって皆君自身のヴァリエーションに過ぎないのだということをよく銘記せよ。如何なる人の罪も同時に君自身の罪に他ならず、また如何なる人の潔白も決して君自身に無関係なるものとは云えぬ。悪徳と不遜はこれを侮蔑せよ。しかし、悪徳と不遜の人間を侮蔑してはならぬ。これは、よく理解すべし。親切で温情ある人間たることを恥ずるなかれ。しかし、もし君が人生の時に、人を殺すべき時が来たとすれば、殺すべし。決して悔いることなかれ。君が人生の時に生きよ。そうすれば、その不可思議なる時の中に、君は世の悲惨や不幸を増すことなく、その限りなき喜悦と神秘に微笑を投げかけるであろう。

人間として生きること

アニシモフさんは俳優達に対して、舞台上では徹底的に人間であることを断固要求した。それはもう、首をしめあげるような恐ろしさと、張り裂けるような怒りと、実の子どもに対するような愛情でもって。

それを思うと、舞台の外でどれだけ人間として生きられていないかを知る。どれだけ自分を隠しているか、偽っているか、ごまかしているか。アニシモフさんはそのことを身を切るような思いで悲しんでいる。彼が街を歩くとき、電車に乗る時、どんな分量の心の痛みがあるのか想像することさえできない。

「こーじはその尊厳の高さゆえに苦しんでいるところをたまに見る」と言われたことがあった。いつどこでどんな風にしてそれを見てくれていたのか。驚く。

僕がアニシモフさんに初めて出会ったとき驚愕したのは、人間に対するその洞察力だった。目の前の人間の心の、精神の、魂の中で起きていることに対しての驚くべき洞察、その正確さと鋭さ。この人は超能力者なのか?と思ったほどの正確さだった。漫画の吹き出し(心の中のやつ)が全部この人には見えるのか?と思った。

かと言って、アニシモフさんは自己の存在を消す事はしないのだ。圧倒的存在感と、尋常じゃない量の感情と意志でもって、ものすごい能動性で働きかけてくるのだ。それは人間という生き物の極みだと思った。人間が人間に対するときの、一線を超えた誠実さと愛情。才能を極めた人であるより、人間を極めた人なのだと思った。

そして僕が心底揺さぶられたのが、その信念である。一点の曇りもない信念。それはもう、古代遺跡の柱のように、何千年もそこにそびえたっているかのような信念。信じていないという選択肢が完全に消え去った後の、信じるという純粋エネルギー。いや、信念というか、真実。彼の価値観ではない、彼が信じている固有のものではない。宇宙の始まりからずっとある、変わることない普遍的な真理とか真実。そういうものがドパーっと溢れ出しているような感じだった。しかし夜の湖のような静けさで。

人生において、何かの道を志す者が、その師に出会うという事件は、やはり一回こっきりなのではないか。まるで自分の心臓をえぐり出してテーブルに置くような、替えのきかない一つだけの存在ではないか。そしてそれは永遠のものであると思う。出会う前から、ずっと前からそこにあり、どちらかが死んでもずっとそこに存在し続けるもの。形而上学的な、何らかの形や関係や、意味や目的さえも超えた何かであると思う。一人の人間の魂が小宇宙であるとすれば、その衝突によって生まれる中宇宙というか。

兎に角だ、僕はそのとき人間として生きる事を突きつけられたのだと思う。自分なりにずっと人間らしく生きてきたつもりだけど、それを形式を持った芸術を通して、人類や全世界のために捧げることを、示唆されたのだと思う。それは中々困難な道で、純粋に生きようとすればするほど矛盾や葛藤が湯水のように溢れてくるけれど、その不完全さこそが人間だ。人間が人間であることの意味は、完全性の中にあるのではなく、不完全さを克服しようともがく中にある。これは高野悦子さんの言葉だ。こりゃあ本当だな、と思う。

そのことを思うとき、自分とはなんてちっぽけで卑小で矮小で、臆病で嘘つきで傷つきやすい疑心暗鬼の人間かと思う。人間を信じることにおいて、絶望しながら口笛吹いてるようなものだ。社会になじむフリはできるが、実際のところ完全に浮いている。調和を望むがどうにも不協和音。モテたいが、実際はセンスのない田舎者。両親の短所を掛け合わせるとその本質が浮き上がる。長所をかけあわせるとエキセントリックな音がする。しかしそこに、高杉晋作の創った奇兵隊のような珍奇なおもしろさがある。唯一無二の色がある。これこそが人間存在のオモシロサだ。駄目であればあるほど美点があぶり出てくる。そこで開き直るとき、空を飛ぶような自由さがある。土が鳴るような軽快さがある。

そのへんそこらへんを集約すると、つまり、生きろ、逃げるな、今居る場所にとどまれ、進め、走れ、歌え、踊れ、そして死ね、ということになる。ここまでやってくると、死の向こう岸がなんとも楽しみになってくる。そこからだ、という気さえする。そして一周回って、生きることに躍動感が出てくる。そうなるともう勝ったも同然だ。何をやってもやらなくてもいいのだ。速くても遅くても、強くても弱くてもいい。全部MUSICだ。自分という楽器そのものがもう素晴らしいから、もう任せておけばいいのだ。勝手にしやがれ、と。

それらしく聞こえる誰の標語にも乗らない。自分のキーとリズムで。言葉ではないところから浮き上がってる言葉で。そして全ての人間を絶賛するのだ!なんと素晴らしい出来栄えだ!と。ベリーベストだ今現在、そこもここもかしこも。目を凝らせば見えるはずだ。耳を澄ませば空から人間讃歌が聴こえるはずだ。

よし!飽きた!風呂入って寝よっと。

演劇習慣をつける

芝居の稽古や本番がない日々の中で、自主的に演劇芸術に関わる時間を作る。

まずはスタニスラフスキーの「俳優の仕事」を毎日少しでも読む習慣をつけようと思う。昨日今日は「想像力」についての章を読んだ。想像力は強いてはいけない。釣り糸を垂らして魚をおびき寄せるように、自分の精神に材料を与え、それが自ら踊り出すのを促すこと。そして俳優のそれは能動的でなくてはならない。そしてまた、意図や方向性を持ったものでなくてはならない。暇つぶしの妄想ではないのだ。目的を持った想像。

そしてまた、役作りも毎日少しでもする習慣をつけたいと思う。今はサローヤンの舞台のダニエルという人物について。彼の主題は「自由」である。それは不自由との戦いとも言える。不自由を前提とした状況において自由を求める行動。それが彼の一本線となるものだ。

 

さて、今日は映画を二本観た。「300」と「英国王のスピーチ」。前者はクソだった。後者はオモシロかった。役がちゃんと創り込まれている人物というのは魅力的だと思った。ちゃんと人生があるのだ。ちゃんと生活がある。だからちゃんと、人間に見える。

そうだ、役創りは、人間創り、一人の人物の創作。神様みたいにゼロから創るわけではないが、自分の人生経験と想像力を材料に、一個のキャラクターを創り上げること。これは改めて考えるとなんと興味深い作業だろう。すごいことだ。また、生半可にできないことだ。うちの劇団は同じ作品を何年もやるから、僕は一人の人物について、彼の生活や人生について何年も時間をかけて、田畑を耕すようにエネルギーを注いでいくことができる。そういう経験を積ませてもらっているというのは宝だ。そして圧倒的に全幅の信頼を置ける師、演出家がいること。これはもう奇跡だ。ラッキー!

 

実生活については相変わらず葛藤の毎日だが、たぶんこの葛藤はハナクソみたいなもんで、実のところ動き出せば容易に解決すると思う。解決というか、動き出すのだ。動き出せばあとは転がる石の如く、物事は進んでいく。今はアクティブなチューニングに自分を持っていくことに注力しよう。最近は考えてばかりだ。人生振り返ると、考え込んで得した経験はない。行動して損した経験もない。青年よ書を捨て街へ出よ、だ。

 

とにかく、自由に生きたいと思う。僕は自由に人生を生きたいと思う。自由すぎて困るほどに。空を飛んでいるのではと錯覚するほどに。まちがいなく自分は天才だと勘違いするほどに。今世界で一番オレが楽しい、と空に叫ぶように。内的にも、外的にも自由でありたい。社会の外でも、内でも自由でいたい。誰に対しても自由で在りたい。自分の内側に居る、まだ自由でない何者かを解放してやりたい。赤子が泣き叫ぶのもウンチするのも自由なように、そんな風に彼を解き放って見守ってやりたい。

日本で生活すると今は決めているわけだから、日本という前提を受入れて自由を追究したい。社会と関わって生きてるわけだから、クソッタレのしがらみと空気の中で自由である方法や筋力をつけていきたい。そこは強く、速く、高くありたい。圧倒的に。

 

人間存在の可能性を追究して、解き放って、そして賛美したい。今は自分もまた奴隷。自分の奴隷。自分で自分に鎖をかけている。鍵をどこかに隠している。それを解くと不都合なことがあるからだ。大変なことになるからだ。それが怖いからだ。人間というメカニズムはほんとにめんどくさい。しかしだからオモシロイ。少しずつほぐして、しなやかに伸びやかに、踊らせてやろう。

 

ではおやすみなさい。