演劇芸術家(卵)の修行日記

芸術としての人間模様とコミュニケーションについて。

ドストエフスキー「白痴」の稽古

明日からの舞台公演に向けて今日、劇場入りした。

今回は出番がないから気楽にいたら、急遽代役で稽古に上がることになった。しかも開始5分前に。勘弁してくれと思ったが、俳優修行としては有り難いことだ。

今回はドストエフスキー「白痴」の公演。「もっとも美しい人を描きたかった」とドストエフスキーが語るムィシキン公爵を主人公に物語は進行する。

僕は野心家の若い役人ガーニャという人物の役。とにかく自尊心が強くて、妬み深く、劣等感や優越感に翻弄されて破滅していく役。大金を手に入れるために恨んでいる女と政略結婚を決断するが、結局何もかもうまくいかず精神を病み、しまいには妹に養われるハメになる。舞台では、その策略に失敗するまでが内容として盛り込まれている。

10代から20代初めまで、僕はとにかく劣等感が強くてそれが生きるモチベーションだった。女の子と話せない、バスケがうまくならない、服の選び方が分からない、商社に入社したのに英語ができない、仕事もできない、芸術的なセンスがない、映画や本の知識がない、、、etc。そういうところからは抜け出たつもりだったけど、役と向き合っていくとまだまだカルマが山ほどあることを感じる。

今なお根強いのは、なんだかんだ自分は優秀だというエゴ。なんだかんだ、基本的に何をやっても秀でる、という認識。実にくだらない。そんなものは誰かをおとしめることでしか実現されない状態で、空から俯瞰して見たら常に差し引きゼロ、何の発展も進歩もない。にも関わらず、未だそんなものをエネルギーにしてる阿呆。分かっちゃいるけどやめられない。

これは結局苦しみに辿り着く。芝居の中でもさんざん他人を妬み、策を弄して成り上がろうとするが結局うまくいかず、家族や上司や婚約者になじられる。舞台上のセリフとはいえ、今日6時間そんなことをやるのは本当に辛かった。最後は気が遠くなって立ってるのもやっとになり、失神するかと思った。

そして演出家アニシモフさんにも徹底的にダメ出しされた。「相手の話を聞いてない、見えてない」「毎回同じことをやってる」「心がない」「嘘の感情でやってる」「設定が分かってない」「セリフのどこを立てるか分かってない」などなど。何もかもダメで、途中からもう異次元への穴があったら入ってどこかへ消えてしまいたい気持ちだった。たかだか32年の人生だけど、できないことも努力すればなんとか克服してこれた。芝居を始めて、これほどできないということの苦みと渋みを痛感させられるのは生まれて始めてだと思う。そしてできるようになるまでの道のりの長さよ・・遥か地平線、気が遠くなる。なんとかカタチになるのに最低でも10年かかるかな・・・

サイバーエージェントの社長、藤田晋が本で書いてた。「孤独と憂鬱と怒り、それを足したよりも上回る希望、それがこの仕事をやる動機。」なんだか、そうだなあ、と思う。

あと昨日のベケットの稽古でアニシモフさんが言ってた。「希望、絶望、希望、絶望・・・人生その繰り返しだ」それは本当にそうだなあと思う。人生の全て、人類や地球や宇宙のすべてに希望の光を見たかと思うと、翌日には憂鬱で生きることすら面倒くさくなる。でもそれは本当の希望を、中途半端なものでなく、普遍的で絶対的な何かを追究しているからだと思う。

初めてもらった役が、鬱で絶望してピストル自殺する役だった。絶望ってよく分からないなあと思って親友に「絶望ってどんな感じ?よく分からないんだ」と聞くと「何言ってんの、こーじは基本的に絶望してるじゃない」と言われた。「自分の中のいちばん低くて深いところで、いちばん上を見て泣きながら口笛吹いてる感じ」とも。

「音楽」は音を楽しむと書いて音楽で、決して未来永劫「音悲」という単語は生まれないだろう。にも関わらず、「ギリシャ悲劇」は何千年も前からあって、未だ現代人によって上演される。それは人間そのものを描くからだろう。それは人間そのものを創るからだろう。そしてそれを観にくる人がいる。必要とする人がいる。なぜか「ギリシャ喜劇」を観たがる人はいない。

人間・・・めんどくさい・・・

あーあ、明日も稽古、そして本番。出ないけど、あーあ、やりたくないけどやるしかないし、結局のところ、心底やりたい。